石川啄木 はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る『一握の砂』

石川啄木(いしかわたくぼく、1886年 - 1912年)のこの歌は歌集では、以下のように3行書きで表記された。

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

石川啄木『一握の砂』
(働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりじっと手を見る)
《歌意》どんなに働いても、依然として私の生活(くらし)は楽にならない。私はじっと手を見る。

《解説》
啄木の名前は知らなくても、この歌を憶えている人は多いに違いない。
 この作品を書いた当時の啄木は、家族4人(妻、娘、父、母)を養うために、病弱な体に鞭打って、働きに働いた。こうした無理もたたって啄木は、わずか26歳でこの世を去った。

啄木は、この作品を明治43(1910)年7月26日に詠んだと言われている。前年、東京朝日新聞に校正係として入社。月給による生活を始め、家族を函館から東京へ呼び寄せた。しかし母と妻・節子の折り合いが悪く、家庭の雰囲気は悪かったようだ。

新聞社から給料を得てはいても、暮らしは楽ではなかった。啄木は、会社や金田一京助をはじめとする友人らから借金を繰り返して、なんとかやりくりしていたが、生活を切り詰めてつつましく暮らしていたというわけではなく、むしろ遊興に貴重な金を浪費していた。金田一などは、啄木のためを思い、大切にしていた蔵書を売り払って、金作していたにもかかわらず、当人はそうしたまとまった金を手に入れると、浅草に度々足を運んでは、プロの女性との一夜を楽しんでいた。早い話が、ろくでなしである。母や妻子からは東京で一緒に暮らしたいと催促の手紙が度々届いていたが、彼らを養うことを負担に感じていた啄木は、浪費によって、現実から逃避していた。ここらへんの事情については、『啄木・ローマ字日記』 (岩波文庫) に詳しい。

啄木は校正の仕事のかたわら、歌集『一握の砂』出版の準備や「二葉亭四迷全集」の校正、新聞歌壇の選者などを手がけるほか、いくつもの新聞などに作品を発表していた。なかなかの働きぶりだが、それでもくらしは一向に楽にならなかった。当時の啄木が経験していた、生活の苦しさがこの歌には、率直に表現されている。

この少し前、1910年5月から6月にかけて、大逆事件が起こる。明治天皇の暗殺を計画したという理由で、幸徳秋水ら多数の社会主義者無政府主義者が検挙、処刑された事件である。

大逆事件をきっかけとして、啄木は、社会主義思想への関心を強めた。日本語で読める文献を読みあさり、かなりの知識を得ていた。当時の啄木は、そうした知的環境のなかにあり、「はたらけど」の歌にも、労働者階級の立場に立つ社会主義思想の影響があったことは間違いない。しかし、啄木は社会主義イデオロギーを背景にしりぞけ、「ぢっと手を見る」というシンプルな身振りによって象徴させた。こうした手法が、この歌を、永く、そして多くの人に愛唱される作品にしている。

《表現》
歌の形式としては四句の「楽にならざり」で切れる。この四句切れが五句の「ぢっと手を見る」へ移るまでに、鋭く深い間を生み出す効果を上げている。したがって、この歌を読む場合、「楽にならざり」で一端息を止めて、一拍置いて「ぢっと手を見る」と発語する格好になる。この深い間に、啄木の複雑な心情が込められている。

啄木の短歌「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」については、こちらのページに解説を記した。

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石川啄木 (コレクション日本歌人選)
一握の砂 (朝日文庫)
新編 啄木歌集 (岩波文庫)
石川啄木歌文集 (講談社文芸文庫)
石川啄木 (明治の文学)
啄木かるた
啄木短歌に時代を読む (歴史文化ライブラリー)

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2011年6月号 会員2欄

春鮒の三白眼に見抜かれたような気がして歩みをとめる

革命を夢見し男のふるまえる有機農法きゅうりの苦味

早口に死者を数えるキャスターはつゆためらわず大台を超ゆ

配達のバイクに曳かれゆくごとくバスは傾いで右折していく

ガンバローと言う彼の息饐えていて新緑の窓へと顔を背ける

肌色のテープで口を塞がれた郵便受けのうちの暗やみ

『家出のすすめ』 寺山修司

家出のすすめ 寺山修司

ネットでは、家出人用の掲示板があって、そこでは家出した少女らが、宿と食事を提供してくれる相手を求めるメッセージを書き込んでいる。家出少女を受け入れるのは、たいてい男で、「神」と呼ばれる。現代における家出の理由は様々だろうが、家庭が崩壊して、居場所を失ったため、あるいは虐待する親から逃れるためのいずれかが当てはまるのではないだろうか。つまり家庭の機能不全が少年少女の家出の引き起こしているのだ。

寺山修司もいわば機能不全を起こした家庭に生まれた。父を戦争で失い、母は遠く離れた場所で「酌婦」をしていた。寺山は親戚の家に預けられ、母は仕送りをした。一方で、二人で暮らしていたときの母は幼い修司にしばしば暴力を振るった。

その寺山が、『家出のすすめ』を出版して以降、何人もの家出人が寺山の家を訪問し、そのまま住み付くケースが増えたという。その後、寺山は、劇団を立ち上げて、家出人らを舞台の役者やスタッフとして起用したようだ。現代風に言えば、寺山は当時の家出人らの「神」だったことになる。

寺山がこの本で繰り返し伝えようとしたのは、自由を拘束するような常識を疑う精神だ。しかし、常識は、当たり前のこととして信じてしまっているのでなかなか意識しにくい。寺山が、本書で採用したのは、童謡や歌謡曲、漫画、便所の落書きなどのサブカルチャーの分析を通して、読者の中に根を下ろす悪しき常識を浮かび上がらせる戦略だ。

たとえば、第一章の「家出のすすめ」では、家の観念を解体し、家に拘束される人生の虚しさを強調する。そこで取り上げられる作品の1つに漫画「サザエさん」がある。寺山は、サザエとマスオの性生活を読み解きながら、家という観念の権力性を浮かび上がらせる。サザエがネグリジェではなく、パジャマで寝ること、サザエとマスオが布団を並べて寝る描写がほとんど無いことなどを例に引きながら、婿養子のマスオの性欲は磯野家によって去勢されかけていると結論付ける。さらに寺山は、マスオの性的不満が離婚に発展しないと指摘し、作品の底に流れる「何事も変わってはいないし、変わる必要がないのだ」という保守イデオロギーを暴き出す。

このサザエさんについての文章は、後に1990年代に謎本ブームを起こした『磯野家の謎』をはじめとした一連のサザエさん関連書籍の先駆とも言える内容であり、寺山の先見性をも証明している。大衆文化や風俗現象から、それらの底に潜んでいる時代の潮流や意識の変化を掬い上げる寺山の手法は鮮やかだ。

家出をすすめることで、寺山は、家という観念や親から教えられるままに受け入れてきた常識や道徳を疑うことを訴える。それによって、寺山が目指すのは、個人の自由と可能性を奪う常識を解体すること、そうした常識を育てる土壌である家から解放されることである。なぜなら、寺山は家出こそが社会変革の起点になりうると考えているからだ。

年譜によると、寺山は1963年に『現代の青春論』(三一書房)を出版。この『現代の青春論』を改題して出版されたのが『家出のすすめ』である。本書が出版されたのは寺山が27歳のときで、それまでに、2冊の歌集『空には本』『血と麦』や、詩集『はだしの恋』などの著作はあったが、エッセイ集としては、寺山の最も早い時期の著作である。若書きゆえの粗さや未熟さを感じることもあるが、後に演劇や評論など多方面に展開される才能のきらめきを、いたるところに発見できるはずだ。

『家出のすすめ』目次

第1章 家出のすすめ
第2章 悪徳のすすめ
第3章 反俗のすすめ
第4章 自立のすすめ


寺山修司 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 『寺山修司歌集』

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

《歌意》マッチに火を点けると、火に照らされて海に霧が深く立ち込めている情景が浮かび上がる。私が命を捧げて守るに値するほどの祖国はあるのか。

《解説》 場所は波止場、時間は夜に近い夕暮れだろうか。暗がりの中、ロングコートを着た男が独り海を見つめ、タバコに火を点すという場面が目に浮かぶ。乳白色の霧の中にて、マッチの炎の周囲だけが赤く照らされる。やや日活の無国籍アクション映画のような場面を想像してしまうのは、コートを着た寺山修司の写真が記憶にあるためかもしれない。

 寺山のこの歌は、1957年1月に出版された作品集『われに五月を』の「祖国喪失」と題された一連に収録され、さらに翌年出版された歌集『空には本』にも収録された。歌人が「身捨つるほどの祖国」と詠う背景には、太平洋戦争において、大日本帝国のため、天皇のためと信じて、戦い死んでいった上の世代の姿がある。寺山の父は、太平洋戦争の末期にインドネシアのセレベス島で死んだ。

 この作品が発表された当時の日本は敗戦から立ち直り、復興に向けて走りはじめていた。そうした戦後の復興の中にあって、人々は国家の軛から解放されて自由を謳歌しているはずだった。一方で、高度経済成長期に突入した明るさのなかで、信じるべき理念を失った不安や虚しさが、人々の内側からじわじわと精神を蝕みはじめていた。一部の敏感な精神の持ち主は、多くの人が希望に満ちた未来像を語るのを横目で見ながら、足元から忍び寄る虚無の影を確かに見ていたに違いない。

 霧に閉ざされた海のイメージは、当時の社会に広がり始めた不安や虚しさを象徴している。また、「身捨つるほどの祖国はありや」という切迫した問いかけに、国家ばかりか、命をかけて信じるほどのものは、自分には何も無い、という宙吊り状態の不安定な気分を聞き取ることができる。

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寺山修司全歌集 (講談社学術文庫)
寺山修司歌集 (現代歌人文庫 3)
ロング・グッドバイ 寺山修司詩歌選 (講談社文芸文庫)
寺山修司青春歌集 (角川文庫)
全歌集全句集 (寺山修司コレクション)

2011年5月号 会員2欄

三枚の羽持つ風車ゆっくりと遠い海辺に発電をする

にぎり飯ほおばる昼の指先に餌の磯蚯蚓(いそめ)の残香を嗅ぐ

豚のデス・マスクの見あげるその先の空高く銀の米軍機往く

ラーゲリを生き延びし祖父をふるさとは赤き教授と呼びて疎みつ

床ずれに薬を塗られて祖父は見し南の国の鳥のまぼろし

少年のかたく握りし手の先のはるか高みに連凧は舞う*1

*1:『短歌人』2011年5月号 2011年4月27日に自宅へ到着。詠草は東日本大震災が発生した当日である3月11日朝に投函した。

2011年4月号 会員2欄

階段の螺旋の先へくだりゆく懐かしき闇の奥の方へと

母の踏むミシンを遠く聴いていたあの果てしなく降る雪の夜に

爪先はモデラートからアレグロへ加速していくペダルの上を

見上げれば真っ直ぐに昇る心地する雪のひた降る空に向かいて

節分の翌朝窓を開けやれば敷居の溝に豆つぶれおり

制服の二人は歩めり雑踏に半角アキの距離詰めぬまま

2011年3月号 会員2欄

自転車の倒れるまでの一瞬を僕らは息を詰めて見つめる

天使舞い降りるがごとくいくすじの陽は差す冬の大黒ふ頭

インシュリン注射の針の冷えびえと父が肌えの粟立ちており

つまずいて着物の裾をひるがえし女歩めり夕の銀座に

祈るごとケータイ掲げる群れにいて無数の光る腕を見ていた

終電の床に転がる空き缶を見届けぬまま駅に降り立つ