唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

『唐沢俊一のトンデモ事件簿』パクリ疑惑・その2。

 『唐沢俊一のトンデモ事件簿』(三才ブックス)CASE19「憤懣と鬱憤、怨念のコトバ」には、『無限回廊』の「ピアノ騒音殺人事件」と似た文章が随所に見受けられる。ただし、今回は丸写しというわけでもなく、唐沢が自分で書いた部分も数多くあるからパクリか否か判定するのが難しい(とはいえ、事実関係は『無限回廊』に出ているものとほぼ同じ)。文章が長いので対応表を作っておく(本文は下にあるので参考にしてほしい)。パクリ元の『無限回廊』を黒字で、「憤懣と鬱憤、怨念のコトバ」を赤字で表記する。なお、『無限回廊』の記事は2002年に書かれたものであり(「大浜は死刑確定した日からすでに25年経っているが」とある)、「憤懣と鬱憤、怨念のコトバ」の脚注には「2005年12月現在」とあるので、「憤懣と鬱憤、怨念のコトバ」の方が後から書かれているのは明らかである


午前9時20分ころ、奥村家の主人(当時36歳)が出勤し、妻の八重子(当時33歳)がゴミ袋を持って玄関から出た。それを見ていた大浜は刺身包丁を手に取ると、その奥村宅へ走り込んだ。
昭和49年8月28日午前9時20分頃、奥村家の主人(36歳)が出勤し、妻の八重子(33歳)がゴミを捨てに出たのを見計らって、大浜は刺身包丁(このために購入した)を手に、鍵が開いたままの奥村家に侵入。(『トンデモ事件簿』P190 2〜4行目)
※ 「大浜は仕返しをすることを決意し、刺身包丁を買ってきた」という文章が『無限回廊』の記事にある。


ピアノを弾いていた長女のまゆみちゃん(当時8歳)の胸をひと突きして死亡させ、続いて傍らにいた次女の洋子ちゃん(当時4歳)を刺して死亡させたあと、マジックで襖に乱暴に殴り書きした。
大浜は弾いていた8歳の長女、まゆみの胸をひと突きにして殺し、続いて、その脇にいた4歳の次女、洋子もまた刺し殺した。その後、大浜はマジックで襖に犯行声明を殴り書きしたのである。(P.190 4〜6行目)


そこまで書いたとき、八重子が戻ってきた。洗濯機のスイッチを押し、それから子ども部屋の隣りの居間に入ってきた。大浜は居間に飛び込むと、ためらわずに八重子の胸を狙って刺身包丁を突き刺し死亡させた。
そこまで書いた時、母の八重子が戻ってきた。“殺人鬼になれないものだ”と書いた大浜はいとも簡単に殺人鬼になり、居間に突進。何事が起きたのか、八重子が理解もせぬうちに、これも心臓をひと突きして死亡させた。(P.190 9〜11行目)


1928年(昭和3年)、大浜松三は東京都江東区亀戸で生まれた。
大浜松三は昭和3(1928)年、東京都江東区亀戸の生まれ。(P.187 2行目)


家業は書店であった。
本屋の息子で、(P.187 2行目)


小学校時代は成績優秀で、ずっと級長だったが、
こういう子は学力が高いことが多く、実際小学校時代はずっとクラス委員を務めていたというが、(P.187 3〜4行目)


3年生のとき、近所の吃音の子と遊んでいるうち、自分も吃音するようになって悩んだ。
しかも、やや吃音(どもり)の気味があったというから、(P.187 4〜5行目)


旧制中学に入り、国語の授業で指されて教科書を読んだが、上手く読めず屈辱的な体験をして、劣等感を抱いて学習意欲を失い、怠惰になり、みるみる成績が落ちた。
中学(旧制)時代に得意だった国語の授業で、朗読ができなかったために(昔の学校では今以上に、みんなの前で本を音読することが重要な科目とされていた)みんなに馬鹿にされ、学習意欲を失った大浜は、あっという間に優等生から劣等生へと階段をガタ落ちすることになる。(P.187 6〜9行目)


卒業して疎開先の山梨県終戦を迎えた。その後は親類の車体組み立て工場に勤めていた。この頃、吃音はいっそうひどくなって職場ではちょっとしたことで腹を立てた。また、家庭では兄たちと毎日ケンカして近所の人と顔を合わせても、目をそらして口をきかなかった。
戦後親類のやっていた工場に勤めていた時は、職場での些細なことに腹を立て、また家庭でも兄弟たちと毎日ケンカばかりだったようだ。(P.187 11〜12行目)


1948年(昭和23年)、国鉄(現・JR)中央線の東京都国立(くにたち)駅の職員になった。IQは109あって「頭の良い男」と見られていた。
その後公務員になったりした大浜だったが(そんな問題ある性格でも次々仕事が見つかるのも基本的に優秀な頭を持っていたからだろう)(P.187 13〜14行目)


1951年(昭和26年)、競輪に熱中した挙句、小額の公金を横領して逃げ、金がなくなると、ひったくりをやって逮捕され、懲役1年・執行猶予3年の判決を受けて、国鉄を解雇された。
昭和26(1951)年、競輪に入れ揚げ、職場の金を横領して逃亡。ひったくりをやって逮捕され、執行猶予はついたものの職場は解雇される。(P.187 14行目〜P.188 1行目)


その後、旋盤工場に就職したものの長続きせず、自宅でぶらぶら暮らしていた。
その後は就職するも長続きせず、自宅でダラダラ暮らし、(P.188 1〜2行目)


1955年(昭和30年)、家出して、1年ほど東京都港区新橋でホームレスとして過ごした。
そこにもいづらくなって家を飛び出て、昭和30(1955)年には東京都港区新橋で浮浪者にまでなって1年を過ごしていた。(P.188 2〜3行目)


1956年(昭和31年)、亀戸の自宅に戻り、再び旋盤工として働き始めるが、工場を次々と替わった。吃音のため先輩に嫌われ、仕事を教えてもらえず、勤労意欲を失ったという。
翌年、亀戸の自宅に戻り再び働き始めるが、吃音のためコミュニケーションがうまく取れず、就職先を次々に変えていく。(P.188 4〜5行目)


1963年(昭和38年)ごろ、大浜の身に異変が起きた。自動車工場は二交替勤務で、夜勤のとき昼間アパートで寝ていると、原因不明の「ドカーン」という音がする。
これが数日続いて眠れなくなった。これは、近所のガラス戸の開閉音が爆弾の炸裂音のように聞こえていたようだ。大浜はこの音を聞くと、脳が破壊されるような気がするという。

この頃から、彼の精神には異常が見られるようになってきたようだ。昭和38(1963)年、夜勤の後、昼間にアパートで寝ていると、突然ドカーンという爆発音が聞こえ、それが数日連続して起こったため、眠れなくなったという。この原因は、何のことはない、近所のガラス戸の開け閉めの音だった。神経過敏になっていた大浜には、これが爆発音に聞こえたのである。(P.188 10〜13行目)


同じアパートの夫婦者に、ステレオの音が大きいと苦情を言って大喧嘩したこともあった。
それ以降、騒音に異常反応を示すようになった。アパートの子供たちの遊び声がうるさいと叱りつけたり、よく吠える近所の犬を何匹か殺して、警察に通報されたりした。

その後、彼は結婚し、転職と引っ越しを繰り返す。いつの場合も、アパートや周辺住人の立てる、ステレオ音や大工仕事の音、子供たちの遊び声などが原因であった。近所の犬がうるさいといって殺し、警察沙汰になったこともある。(P.188 14〜16行目)


そして、雀の鳴き声が気になり始めると、木によじ登ってビニールテープを「雀よけ」と称して張り巡らした。
スズメが近所の木に来てうるさいと、家の周囲の枝に全部、ビニールテープを張り巡らせたこともあった。(P.189 1〜2行目)


1970年(昭和45年)4月、大浜と妻が神奈川県平塚市田村の県営横内団地34号棟の4階に入居した。
そして、昭和45(1970)年4月、運命の神奈川県営団地34号棟の4階に、彼ら夫婦は転居する。(P.189 3行目)


6月、大浜家に続いて、奥村家の親子4人が階下に入居してきた。
2か月遅れで階下の部屋に、親子4人の奥村家が引っ越してきた。(P.189 4行目)


大浜は階下の物音は戸の開閉まで気にしながら、抗議に行ったことはない。むしろ、自室の物音が階下の一家を刺激して報復を招いていると考えた。だから、妻には口やかましく注意し、部屋には厚いマットを敷いて、忍び足で歩いた。
この間、大浜は1度として奥村家に苦情を持ち込んでいない。奥村家の主人が多少コワモテ風だったせいもあるだろうが、下手に苦情をいいに行って口論となり、カッとして取り返しがつかない状態になることを恐れたのだろうか。むしろ、自分の部屋に厚いマットを敷いて常時忍び足で歩き、音を立てないようにしていたようである。(P.189 9〜12行目)
※ 「階下の亭主は腕っぷしの強そうな男で」と『無限回廊』の記事にある。


犯行後、大浜は海で死ぬことを考え、さまよったが、死にきれず3日後の8月31日に自首した。
海に行き自殺を図ったが死にきれず、3日後に警察に自首してくるのである。(P.190 12行目)


1975年(昭和50年)10月20日横浜地裁小田原支部で大浜に死刑の判決が下った。
大浜にとっては望み通りの判決で控訴はしないと言ったが、弁護人は控訴手続きを取った。

昭和50(1975)年10月、横浜地裁(神奈川県)で大浜に死刑判決が下り、大浜は弁護人の説得で控訴した。(P.191 7〜8行目)



…というわけで、唐沢俊一センセイの華麗なる書き換えテクニックを堪能されたことと思う。「自宅でぶらぶら暮らしていた」→「自宅でダラダラ暮らし」なんかおかしくてしょうがない。とはいえ、実際問題としてここまで書き換えるのは大変だったろうと思う。おかげで盗用だと判定しにくくなっている。まあ、少しでも仕事が粗くなると盗作だとすぐにバレてしまうわけだし、結局のところ、かなり頑張っているのに『無限回廊』だけを下敷きにして書いたことはバレてしまっているのだが。割に合わないことをしていると思う
 唐沢俊一が『無限回廊』だけを下敷きにして書いた第一の証拠は、唐沢が『無限回廊』と同じミスをしていることである。唐沢も『無限回廊』も、大浜松三は「1928年」に「東京都江東区亀戸」で生まれたとしているが、1928年には東京都も江東区も存在していない(だから「現在の東京都江東区亀戸で生まれた」と書けばよかったわけだ)。また、大浜が小学校に通っていたとあるが、戦前の小学校には尋常小学校と高等小学校がある(それに大浜が小学校に在学中に国民学校に改編されたはずである)。中学には旧制とわざわざ付け足しているのにこの辺に無頓着なのは不思議である。
 第二の証拠は、唐沢の文章も『無限回廊』も同じ構成をとっていることである。2つの文章の構成は、事件の概要→大浜松三の経歴→事件のその後、という流れでほぼ一致している(ただし、唐沢は「事件の概要」を2つに分けている)。『無限回廊』の管理人であるboroさんに、どのようにして「ピアノ騒音殺人事件」をお書きになったかを尋ねたところ、このようなお返事を頂いた。

2534 名前:boro 投稿日: 2008/10/13(月) 10:30:11
ピアノ騒音殺人事件については『現代殺人事件史』を
おおまかに参考にしましたが、この本を読んでいただくと分かると
思うのですが、書き出しは加害者が事件を起こした団地に
引っ越してきたときになっており、その後、事件発生→
裁判という順番になっており、控訴取り下げの日や
死刑判決の日の記述はありません。

それに対し「無限回廊」では「事件発生」→「本人歴」
→「その後」という順番で書き、特に「事件発生」「本人歴」では、
さらに『白昼凶刃』を参考にもう少し詳しくなるように
書き足しました。控訴取り下げ日や死刑判決日などもこちらを
参考にしています。

ですので、1冊の本をそのまま書き写しただけではこのような
記述にはならないと思います。

ちなみに、小文字の「吃音」に関すること、寺尾正二裁判長に関すること
刑事訴訟法475条に関する記述については書いているときに
気づいたので、参考文献にないのですが、書き足しました。

もうひとつの事件「ペット殺人事件」については『戦後欲望史』
『実録 戦後殺人事件帳』を参考に書いています。

 つまり、「ピアノ騒音殺人事件」の文章の構成はboroさんのオリジナルというわけである唐沢俊一の文章がどうして『無限回廊』の記事とほぼ同じ構成になっているのか実に不思議に思う(似たような表現も頻出しているわけだし)。boroさん、質問に答えていただいてどうもありがとうございました。

…今回の文章は、同じ『唐沢俊一古今東西トンデモ事件簿』でも「ゴールドラッシュとカニバル(人肉食い)」や「作家と食人」ほどパクリだと明確に断定できるわけではない。盗用だと思わない人がいたとしても不思議ではない(なにしろ「作家と食人」についても「盗用とは思わない」と言う人がいるくらいだ)。判断はみなさんにまかせるとして、自分が問題だと思っているのは、唐沢がひとつのソースのみで文章を書いてしまっていることだ(『無限回廊』だけをソースにしていることを否定する人はいないだろう)。『無限回廊』の記事は複数の文献をもとに書かれているし、ネット上には「ピアノ騒音殺人事件」について『無限回廊』とは異なる情報が書かれているサイト(「オワリナキアクム」)もあるのだ。

 1973年秋、階下の3畳間に26万円のピアノが運び込まれた。小学2年の長女がピアノを習い始めたからである。本来、ピアノは30畳以上の空間を前提に作られたものだ。その後、毎日学校が終わる午後3時頃から大浜家にピアノの練習曲が響き始めるようになった。大浜は階下の会社員宅を訪れて、「親が日曜大工でガタガタさせるから、子供も遠慮しないんだ。親の教育が悪い」と苦情を言ったが、変人扱いされ、話がこじれただけだった。
 またある日には大浜が回覧板を持って行った時、長女が
「おじちゃん、人間生きているんだから、音は出るのよ」
 と言ったことがあった。無論、これは長女の考えた言葉ではなく、彼女の両親が繰り返し言っていたことだった。

 唐沢俊一にはひとつのソースのみに頼ることなくいろんな情報を吟味した上で自分の考えを組み立てていってほしいものだと思う(プロのライターにこんなことを言わなきゃいけないのは情けないが)。わざわざ文章の細部を書き換えてパクリを隠蔽しようとするのは、はっきり言って労力のムダづかいでしかないよ。

『トンデモ事件簿』P.186〜191

 そんな文章の代表ともいえるのが、昭和49(1974)年8月28日、神奈川県平塚市の団地で起きた日本犯罪史に残る「ピアノ騒音殺人事件」の犯人が現場に残した落書きの文章だろう。
 その日、団地の4階に住む当時46歳の犯人、いやその時点ではまだ犯人になってはいない失業者、大浜松三は、真下の部屋(3階)に住む奥村家の長女まゆみ(8歳)が弾くピアノの音にイラついていた。昭和49年といえば、まだエアコンは一般には普及していなかった。8月末の暑さをしのぐには、窓を開け放しておかなければならない。失業し、妻が実家に帰ってしまっての不便な1人暮らしに加え、暑さでただでさえ不機嫌だった大浜の神経は、そのピアノの音でさらに乱された。
 ピアノも、上手な演奏であればまだ聞ける。8歳の女児の弾くピアノは、何度もつかえ、間違え、また同じところからの繰り返し、の連続だったろう。私も経験があるが、あれはイラつく。まして、神経を病み、妄想にさいなまれていた大浜には、その音はそのまま、自分に対して加えられている暴力としか聞こえなかった。
 大浜松三は昭和3(1928)年、東京都江東区亀戸の生まれ。本屋の息子で、子供の頃から自然と本に親しんだろう。こういう子は学力が高いことが多く、実際小学校時代はずっとクラス委員を務めていたというが、しかしこういう子はまた内省的になりやすいという部分も持っている。しかも、やや吃音(どもり)の気味があったというから、あまり友達とも積極的に交わらず、本の中で自分との会話を楽しむような子供だったに違いない。中学(旧制)時代に得意だった国語の授業で、朗読ができなかったために(昔の学校では今以上に、みんなの前で本を音読することが重要な科目とされていた)みんなに馬鹿にされ、学習意欲を失った大浜は、あっという間に優等生から劣等生へと階段をガタ落ちすることになる。
 他者とのコミュニケーションをうまく言葉で達成できない者の多くは、そのいらだちから怒りっぽくなる。戦後親類のやっていた工場に勤めていた時は、職場での些細なことに腹を立て、また家庭でも兄弟たちと毎日ケンカばかりだったようだ。
 その後公務員になったりした大浜だったが(そんな問題ある性格でも次々仕事が見つかるのも基本的に優秀な頭を持っていたからだろう)。昭和26(1951)年、競輪に入れ揚げ、職場の金を横領して逃亡。ひったくりをやって逮捕され、執行猶予はついたものの職場は解雇される。その後は就職するも長続きせず、自宅でダラダラ暮らし、そこにもいづらくなって家を飛び出て、昭和30(1955)年には東京都港区新橋で浮浪者にまでなって1年を過ごしていた。
 翌年、亀戸の自宅に戻り再び働き始めるが、吃音のためコミュニケーションがうまく取れず、就職先を次々に変えていく。基本的に、コミュニケーションというのは好きでなければ取らないものだ。コミュニケーション嫌いの人間は、1年や2年、人と話をしないでも平気でいる。大浜が吃音をコンプレックスとして抱えてしまったのは、彼が不幸なことに、その根っこの部分では、人との対話や交流が好きなタイプだったからではないだろうか。そう思うと、彼の持つ悲劇性はますます増していく。
 この頃から、彼の精神には異常が見られるようになってきたようだ。昭和38(1963)年、夜勤の後、昼間にアパートで寝ていると、突然ドカーンという爆発音が聞こえ、それが数日連続して起こったため、眠れなくなったという。この原因は、何のことはない、近所のガラス戸の開け閉めの音だった。神経過敏になっていた大浜には、これが爆発音に聞こえたのである。
 その後、彼は結婚し、転職と引っ越しを繰り返す。いつの場合も、アパートや周辺住人の立てる、ステレオ音や大工仕事の音、子供たちの遊び声などが原因であった。近所の犬がうるさいといって殺し、警察沙汰になったこともある。
 そして、昭和45(1970)年4月、運命の神奈川県営団地34号棟の4階に、彼ら夫婦は転居する。2か月遅れで階下の部屋に、親子4人の奥村家が引っ越してきた。奥村家の人々は多少気が強く、がさつなところがあったようだ。趣味は日曜大工。休日になると朝からトンカントンカンと金槌の音を響かせ、さらに数年後には、折りからの高度経済成長下、子供にピアノやエレクトーンを習わせることが流行し始め、奥村家でも子供にピアノを買い与えて、8歳と4歳の娘が昼夜を問わず、ピロンポロンと弾き始めるようになった……。
 この間、大浜は1度として奥村家に苦情を持ち込んでいない。奥村家の主人が多少コワモテ風だったせいもあるだろうが、下手に苦情をいいに行って口論となり、カッとして取り返しがつかない状態になることを恐れたのだろうか。むしろ、自分の部屋に厚いマットを敷いて常時忍び足で歩き、音を立てないようにしていたようである。
「自分が我慢しさえすればいいんだ」という考え方は、しかし大変なストレスを本人に与える。当初は我慢できていても、やがてそれが大きなかたちで爆発してしまうことが多い。大浜は我慢した。じっと我慢した。……その我慢が限界に達した時、悲劇は起こったのである。
 昭和49年8月28日午前9時20分頃、奥村家の主人(36歳)が出勤し、妻の八重子(33歳)がゴミを捨てに出たのを見計らって、大浜は刺身包丁(このために購入した)を手に、鍵が開いたままの奥村家に侵入。ピアノはその朝も相変わらず鳴り続けていた。大浜は弾いていた8歳の長女、まゆみの胸をひと突きにして殺し、続いて、その脇にいた4歳の次女、洋子もまた刺し殺した。その後、大浜はマジックで襖に犯行声明を殴り書きしたのである。
「迷惑をかけているんだから、すみませんのひと言くらい言え。気分の問題だ。大体、来た時も挨拶に来ないし、しかもバカヅラしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ」
 そこまで書いた時、母の八重子が戻ってきた。“殺人鬼になれないものだ”と書いた大浜はいとも簡単に殺人鬼になり、居間に突進。何事が起きたのか、八重子が理解もせぬうちに、これも心臓をひと突きして死亡させた。この時点でやっと放心したのか、大浜は犯行声明の続きを書くことも忘れ、海に行き自殺を図ったが死にきれず、3日後に警察に自首してくるのである。
 この事件は日本で初めての、都市の騒音が殺人動機となった事件としてマスコミが大いに騒ぎ、同じ悩みを持つ人々からの減刑嘆願などが大浜には寄せられたが、そのことは措く。とにかく、数年間耐えに耐え、憤懣、鬱憤、怨念が一気にほとばしった文章ではある。稚拙であるし、意味が通じないし(殺人鬼にはうんぬんのところ、特に)、幼児性が露骨だし(バカヅラして〜何事だのところなど)名文とはお世辞にもいえない文章なのにも関わらず、なまじな名文よりこちらの心を動かすのは、「そうそう、人間、激高するといいたいことの百分の一もいえないよなあ」というこちらの共感を大いに刺激するからだろう。シェイクスピア劇の登場人物は、激高の殺人の直後でも長々と能書きをたれるが、実際は極度の激情は、人間から言葉を奪ってしまうものなのである。
 昭和50(1975)年10月、横浜地裁(神奈川県)で大浜に死刑判決が下り、大浜は弁護人の説得で控訴した。だが、それをすぐに取り下げ、「死刑により自殺を遂げたい」と語った。しかし、なぜかそれ以降歴代の法務大臣も、彼の死刑執行命令書に判を押そうとはせず、大浜松三は今なお獄中に、死刑囚としてその余命を永らえている。

※追記 大浜の生年を誤記していたので訂正しました。