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唐沢俊一検証blog

2008-11-01

自堕落なせいで補陀落が何処にあるのかわからない。

12:39

唐沢俊一トンデモ事件簿』(三才ブックス)P.101〜102より。

 鋸挽で殺された人物のうち、最も有名なのは(フィクションではあるが)、説経節の中のさんせう太夫(山椒太夫)であろう。森鷗外の『山椒太夫』では、最後に山椒太夫は国守となった厨子王の命令で奴隷を解放し、その善行のために農作も工芸もより盛んになって“(山椒太夫の)一族はいよいよ富み栄えた”という、勧善懲悪とはほど遠い結末を迎えるが、これは近代西欧文学を学んだ鷗外が因果応報的な話を古いものとして嫌ったからだろう。元話の説経節の中では、国守になった厨子王は当然、姉の安寿の復讐(安寿も鷗外の小説では入水自殺だが、説経節では裸に剥かれ、膝の皿に錐をもみ込まれるという拷問を受けた末に水責めで死んでしまう)に乗り出して山椒太夫を捕らえ、鋸挽の刑に処して、しかもその挽き役を山椒太夫の息子の三郎にやらせる。その残虐なシーンを、説経節はこう謡う。

「ひと引きひいては千僧供養、ふた引きひいては万僧供養、えいさらえいと引くほどに、百に余りて六つの時、首は前にぞ引き落とす」

 千僧供養とは、千人の僧に斎を施したりもてなすことで、これを行えば功徳となって極楽に行けるという信仰である。自分の親を鋸で挽き殺しながら三郎がこの文句を唱えることでもわかるように、公開処刑は単に悪人の命を奪うだけでなく、悪人の命と引き換えに、善男善女の魂を極楽へと導く儀式でもあったのである。

 たとえ戦争がなくとも、前近代社会において人々の生活は苦しいものだった。人々が願うのは、この苦しい現世を逃れて、極楽へ生まれ変わりたいということであり、平安時代以降盛んになった来迎信仰は、西方補陀落の浄土から、早く阿弥陀様に迎えに来てもらい旅立ちたい、という念から起こったものである。もちろん、極楽へはさまざまな罪に汚れた身では旅立てない。だから、罪人たちの処刑に託して、自分たちの罪や汚れを一身に引き受けて地獄へ持って行ってくれるよう、庶民は願ったのである。その際の死はできるだけ派手で残虐なものの方が、こちらの罪を救済してくれるパワーが生じる。残虐な公開処刑は確かに国主の恐怖政治の表れではあるが、それに庶民が託した希望もあったのである。

 補陀落は南方に存在する観音菩薩のいる場所とされている。唐沢は「補陀落渡海」を知らないのだろうか?「来迎」とはまるで違うと思うのだが。それにしても、「極楽へ生まれ変わりたい」というのはどうなんだろう。

 それから、『さんせう太夫』で三郎が実の父親を鋸挽にしているのは、三郎が安寿を拷問で責め殺した張本人であるためで、鋸挽は三郎にとっても罰であったものと思われる。細かいことを言うと、鷗外の小説は『山椒大夫』なので「太夫」は誤り。

 余談になってしまうが、「ひと引きひいては千僧供養」「えいさらえい」というフレーズは『さんせう太夫』と同じ説経節の『小栗判官』でも登場する。ただし、『小栗判官』では、地獄から戻ってきた小栗判官の胸に「ひと引きひいては千僧供養」と書かれた札が下げられていて、人々は「えいさらえい」と掛け声をあげながら小栗判官が乗った車を曳いているのである。同じ「ひと引き」でも『さんせう太夫』と『小栗判官』では意味が異なるわけだ。

 それにしても、公開処刑が「悪人の命と引き換えに、善男善女の魂を極楽へと導く儀式」であったとする唐沢の理論は粗雑きわまりない。唐沢自身が「フィクションではあるが」と言っている『さんせう大夫』を根拠にしているのが理解できない。そういえば、チベットの拷問について文章を書いたときも。久生十蘭の小説『新西遊記』を根拠にしていたが(詳しくは「トンデモない一行知識の世界」を参照)、最低でも事実を根拠にして文章を書いて欲しいものである

唐沢俊一のトンデモ事件簿

唐沢俊一のトンデモ事件簿

山椒大夫・高瀬舟 他四編 (岩波文庫 緑 5-7)

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説経節―山椒太夫・小栗判官他 (東洋文庫 (243))

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久生十蘭 海難記 (日本幻想文学集成)

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藤岡真藤岡真 2008/11/01 13:33 >説経節の中のさんせう太夫(山椒太夫)であろう

「山荘太夫」でしょうねえ。鋸挽きも江戸時代以降は、鋸は飾りで置かれていただけで、実際に挽きはしなかったのですから、それより前の時代のちゃんとした例を挙げて欲しいところですね。

>自分たちの罪や汚れを一身に引き受けて地獄へ持って行ってくれるよう

これは仏教と言うより、キリスト教の“原罪”という考えに近いのでは?

唐沢は「補陀落」も「来迎」も知らずにこの文章を書いていると思います。というより、この文章のテーマはあんなんのですか?

discussaodiscussao 2008/11/01 17:51 >これは仏教と言うより、キリスト教の“原罪”という考えに近いのでは?

藤岡さんに先に指摘されてしまった・・・><、というくらい分かりやすいツッコミどころですね。そうなると、太夫がキリストになって原罪を背負ってくれちゃってることになってハナシがめちゃくちゃになるのですが、センセイはそんな意図ないのでしょうね・・・

だいたいこれ「語り物」なんだから、「千僧供養、万僧供養」ってのは語りが盛り上がるとこなんだから、センセイの御説のような文学・倫理的な解釈はあまり有効とは思えないんですがねぇ。呉智英だったら、「マルクス主義者の下手な前近代理解」とか言うんじゃないですか・・・?
あと、「千僧供養」は「千人の僧」という具体的な人数を示す意味ではなく「多くの僧」ではないの?

古賀古賀 2008/11/01 20:28 >もちろん、極楽へはさまざまな罪に汚れた身では旅立てない。
>だから、罪人たちの処刑に託して、自分たちの罪や汚れを一身
>に引き受けて地獄へ持って行ってくれるよう、庶民は願ったの
>である。その際の死はできるだけ派手で残虐なものの方が、こ
>ちらの罪を救済してくれるパワーが生じる。残虐な公開処刑は
>確かに国主の恐怖政治の表れではあるが、それに庶民が託した
>希望もあったのである。

地蔵菩薩や阿弥陀仏などの異常に徳の高い存在が悪人の罪を引き受けたり救済してくれるという信仰はありますが、処刑される罪人が他人の罪まで引き受けるという発想は私の知る限りは日本の仏教(民間信仰まで含めて)にはないですね。悪業の報いは必ず行為をした者が受ける(他の者が代わりに受けることはできない)というのが仏教の基本ルールなので。

WOOWOO 2008/11/01 21:29 唐沢は、この説を日記上でも展開しています。
http://www.tobunken.com/diary/diary20071208011308.html
こんな珍説に、よほど自信があったのでしょうか?

kensyouhankensyouhan 2008/11/01 22:06 コメントありがとうございます。今日は読むのにパワーがいるなあ。

>藤岡さん
「原罪」ですか。うーん、なるほど。まるで別のところから発想を持ってきましたね。
>この文章のテーマ
この文章が入った「なぜ死刑は必要か」というコラムは日本の死刑の歴史を紹介するものなのですが、このように締められています。
>昨今、死刑制度廃止論がかまびすしい。しかし、死刑制度には単に犯罪者の生命を絶つばかりでなく、
>被害者、また遺族、そして一般大衆の魂の救済、という意味が含まれている。
>この感情が根底にある限り、死刑に対するニーズは決してなくならないだろう。
この結論に持っていきたいために『さんせう太夫』の鋸挽の話を持ち出したのでしょうね。しかし、死刑存置論は数多く聞きますが「魂の救済」を理由にしているのは初耳です。「魂の救済」というのも、なにやらキリスト教的ですが。

>discussaoさん
本文でも書きましたが、『さんせう太夫』と『小栗判官』で同じフレーズが使われているのが気になってます。個人的に調べてみるつもりです。

>古賀さん
>悪業の報いは必ず行為をした者が受ける(他の者が代わりに受けることはできない)というのが仏教の基本ルール
じゃあ、唐沢の文章はいよいよデタラメですね。補陀落の方角を間違えている時点でアウトですが。

>WOO さん
本人は「珍説」だと思ってないんでしょうね。知識がないと自分のどこがおかしいのかもわからないということです。

kanoukanou 2008/11/01 22:22  >死刑
 近代と、古代では、死刑の意味合いは大分違うと思うのですが、唐沢さんはその辺は考えて居るんでしょうか?
なんだか、考えるのがめんどくさくなったから、宗教を持ち出したような感じを受けます(
 しかし、この粗雑さは、もはやこの手の検証サイトを疲れさせて追い込もうとしているのかと勘ぐりたくなりますね

kensyouhankensyouhan 2008/11/01 22:54 コメントありがとうございます。
>近代と、古代では、死刑の意味合いは大分違う
『トンデモ事件簿』の中の「なぜ死刑は必要か」と「平安日本の死刑史」というコラムは日本の死刑の歴史をテーマにしたものですが、本当に歴史をまとめただけです。尾佐竹猛『死刑と拷問』がモトネタらしいですが。
>しかし、この粗雑さは、もはやこの手の検証サイトを疲れさせて追い込もうとしているのかと勘ぐりたくなりますね
いや、自分は面白くて仕方ないですけどね。やればやるほど楽しくなってきます。

nyannnyann 2008/11/02 07:53 まあ平安時代の処刑が宗教的な意味を持っていたというのは否定しませんけど、さすがに身代り信仰なんていう妄想までは
なかなか普通の人間じゃ思いつきませんって。まあ、平安時代までの刑罰とか暗殺なんかでは、蘇我入鹿から源為朝に至るまで
やられた人間が神様になったり鬼になったりして民間信仰の対象になってますけど、あれは有難い神様なんじゃなくて、
祟りをなすから恐れて祀ったわけでしょ。罪を肩代わりしてくれたから祀ってるわけじゃないし。馬鹿馬鹿しい。
六条河原のことは、ネットからパクったにせよ、あれだけ書いて源氏物語にまで触れてるんだから、せめて源融のことに
触れなきゃ文筆業としてはまったく失格ですね。源融の祟りの伝承があるから、源氏物語の夕顔に生霊が出てくるのだし、
駒止地蔵の話もあるのだし。でも考えてみれば、唐沢さんっていうのはムダに忙しくて本業をやっている時間などなく、
周囲にいるブレーンや編集者や出版社も無能なせいで、唐沢さんに勉強させる時間をまったく与えてないから、
こういうソースひとつで妄想を羅列するような醜態を晒すようになっちゃうんだろうなと少しは同情的にもなりますけど。
この人の文章っていかにも与えられた仕事を機械的にこなしているだけみたいな印象。まあ、もともと内容よりも、
仕事量の多さを日記で自慢しているような勘違いライターだからしょうがないか。

kensyouhankensyouhan 2008/11/02 11:54 コメントありがとうございます。

「崇り」については、『トンデモ事件簿』の中で「宮崎勤は崇り神である」という文章も書いているんですけど、これについてもどうしたものか考え中です。
あと、2ちゃん唐沢スレのカキコミでこんなのがあってちょっと考えさせられました。
>901 名前:無名草子さん[] 投稿日:2008/11/01(土) 18:40:55
>ありえないイベントだなw

>というか、唐沢って自分の生活全てを切り売りして商売にしているんじゃないの?
>映画が好き→映画を見る→それを同人誌にする(メジャーが買ってくれない)
>YouTubeを発見→それを本にする→見せるイベントを開催
>落語家と交友を持つ→自分が演じる落語イベント
>とか、唐沢って仕事に直結しない趣味って皆無だろう

>なんか、さもしすぎて泪が出る

…どうしてこんなに持ちネタがないのか不思議ですね。よっぽどウスい人生を送っていたんじゃないかと心配になります。
あと、「ありえないイベント」というのはこのことです。
http://www.tobunken.com/news/news20081031110757.html
蔵書を処分するイベントに2500円(当日は料金増し)の入場料を取って、しかも飲食代まで取るという。何冊もらったらモトが取れるんだろう。自分は秋葉原のイベントで唐沢の蔵書の一部を見ましたが、とてもそんな価値があるとは思えないのですが(そういえば秋葉原のイベントは入場料500円だったっけ)。アコギな商売をしてるなあと感心させられますが、もちろん自分はこのイベントに行くつもりはありませんw

すみませんすみません 2008/11/02 12:19 ぜひ、行って、報告していただけますとうれしいです。
私は地方に住んでいるので、どうしても行くことができませんので。
ただ、どうせゴミみたいな本を押し付けると思うので、帰り際に「こんなものいらない」と唐沢に突き返してやってください。

kensyouhankensyouhan 2008/11/02 13:31 コメントありがとうございます。

今回処分される唐沢の蔵書にめぼしい本がないのは、こないだ秋葉原のイベントに行ってチェックしていますので、11月24日のイベントに行く意味はないと思います。 2500円も払わなくても、どうせ冬コミで唐沢には会えますし。まあ、一体何人くらいの人がこのイベントに行くのか興味はありますが。