唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

避妊と東映。

…相容れないイメージがあるのはなぜだろうw

唐沢俊一ソルボンヌK子『カルトの泉』(ミリオン出版)P.138
「カルト学方法論序説」[二]「国家と宗教―オウム事件を読み直す」より

 精神分析には「否認と投影」という考え方がある。つまり人は、自分の心の中の暗部を認めたくないばかりに、同じ傾向を他人の中に認めた場合、それを徹底的に非難し、誹謗することが多い、ということである。麻原彰晃の子供たちが学校の入学を拒否される、というような、明らかに過剰すぎる反応を見せるのは、日本人が自分たちの中に、オウム信者たちと同じものを持っていることを認めたくないからであると思えてしかたがない。

 それでは「否認」と「投影」が精神医学においてどのように定義されているかチェックしてみよう。『新版精神医学事典』(弘文堂)より。

「否認」=自己が知覚しながらその存在を認知すると、不快、不安、恐怖を引き起こすような外的な現実や自己保身の現実の存在を、そのものとして認知しない自我の防衛機制(P.676)
「投影」=自己の本能・衝動・情緒・観念・表象などを外在化して、自己とは別個の外界の対象に属するものとして知覚する機制である(P.577)

 つまり「否認」は、ガセやパクリについて批判されているのにそのような批判など無いかのように思い込んだり、自分の文章にガセやパクリなど無いかのように思い込むことで、「投影」は、自分が嫉妬やコンプレックスで行動しているものだから「アンチ」も唐沢俊一に嫉妬やコンプレックスがあるから批判しているんだと思い込むこと、なのかな?
しかし、唐沢俊一の定義はおかしい。「否認」する場合は相手の存在を認めないのだから非難も誹謗もしないことになるし、「投影」が行われるのは「同じ傾向を他人の中に認めた場合」とは限らない。…精神医学もダメか
 それに麻原彰晃の子供の入学拒否については、学校側が麻原の子供たちが普通の子供とは異なる存在であると考えていたからこそ起った問題なのであって、「自分たちの中に、オウム信者たちと同じものを持っていることを認めたくない」ということが理由なのではないと思う。そして、麻原の娘の入学を拒否した大学に損害賠償が命じられている(東京地裁2006年2月20日判決)ことを考えると、「日本人が自分たちの中に、オウム信者たちと同じものを持っていることを認めたくない」とは言えないのではないか。麻原の娘も他の学生と「同じ」なので入学を拒否したのは間違っているという理由で、損害賠償が命じられたわけだから。普通に社会問題を考えればよかったのであって、精神分析の真似事なんてしない方が良かったと思うが。呉智英岸田秀を批判していたのをなんとなく思い出してみたり(岸田秀和光大学の名誉教授だが、麻原の娘の入学を拒否したのも和光大学)。
 なお、この「国家と宗教―オウム事件を読み直す」というコラムで唐沢は「オウムの病理は国家の病理でもある」と主張していて、その根拠として「国家というものが、そもそもカルト宗教的な排他的集団としてその初期には成立したのではないか」と書いているが、邪馬台国と現在の日本国を同じ「国家」として考えているかのような粗雑な議論である。
 他に気になる点としては、P.137に

 日本でも、例えば江戸時代、将軍の入った風呂の残り湯は庶民が厄よけ薬として争って買ったといわれ、逆に明治生まれの人たちは、天皇陛下の姿をまともに見ると目がつぶれると教わっていた。

とあるが、本当にそんなことがあったのか。どうやって将軍の入った風呂の残り湯を入手していたのか。幕府が直々に売っていたのか。公家の入った風呂の残り湯が薬として考えられていたという話はあるし、浄土真宗の信者が門首の入った風呂の残り湯を飲んでいたという話を呉智英氏は書いていたから、あってもおかしくはないかもしれないが。
 それから、同じP.137に

 吉本隆明は『共同幻想論』の中で、国家とは共同の幻想である、と論じた。国家とはしょせん、詩や文学と同じく、人間たちが空想し、創造したフィクショナルな装置にすぎない。そして吉本は戦前の大日本帝国が、科学や経済力、軍事力で世界に伍することができる国家であったにもかかわらず、やすやすと天皇制という宗教的・古代的イデオロギーに支配されたことを問題としている。

と『共同幻想論』について説明されているが、これがウィキペディアのものとそっくりなのは何故なのか

共同幻想論とは、幻想としての国家の成立を描いた国家論である。当時の国家論は、集団生活を成立させる機能として国家を作ったという社会契約説や、国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った暴力装置であるというレーニン的な国家論が一般的であった。つまり、国家とはルールであり、機能性を重視したシステムなのである。しかし、吉本は、国家とは共同の幻想であると説く。人間は、詩や文学を創るように、国家と言うフィクションを空想し、創造したのである。
また、吉本にとって、高度な経済力や科学力を持っていた近代国家である戦前の大日本帝国が、やすやすと天皇制と言う、宗教性の強い古代・中世的な政治体制やイデオロギーに支配されてしまったことは大きな難問だった。

唐沢俊一がちゃんと『共同幻想論』を読んだのか気になるところである。

※追記 minoさんのご指摘に基づき追記しておきました。

カルトの泉~オカルトと猟奇事件~

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新版 精神医学事典

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危険な思想家 (双葉文庫)

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改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

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