唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ライターとしての刺青を問いたい。

それはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく検証していない時分であった。


 今回は『熱写ボーイ』5月号に掲載されている唐沢俊一『世界ヘンタイ人列伝』第14回「変態文豪・谷崎潤一郎を取り上げる。

 まったく、文豪という名称が谷崎潤一郎ほど似合う作家もちょっといない。後には川端康成三島由紀夫がおり、前には永井荷風芥川龍之介がいるが、彼らを差し置いて、文豪と言えばまず、名が挙がる存在が谷崎潤一郎である。芸術院会員になったり勲章をもらったり、作家として功成り名遂げたということもあるだろうし、その作風が、教養と絢爛さに満ちあふれたものであるということもあるだろう。でっぷりと太って和服にステッキをついたおなじみのスタイルが文豪ぽいのかもしれない。とにかく、呼称が“大谷崎”である。国民的作家の夏目漱石森鴎外原文ママ)でさえそんな風には呼ばれない(もっとも“大森”とは言いにくい)にも関わらず、谷崎には“大”の字が何故か冠される。

 ここで「あれ?」と思った。「大谷崎」の話は小谷野敦谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』(中央公論新社)の第1章の冒頭に出てくるのだ。同書P.12〜P.13より。

 どんなに偉大な作家でも、他と区別する必要がない場合は、一般に「大」をつけたりはしない。大芭蕉、大馬琴、大漱石、大鷗外などとは言わないのである。「大トルストイ」というのも、アレクセイ・トルストイという別の作家がいたからだ。そして谷崎が大谷崎と呼ばれるようになったのは、弟の精二も作家だったからである。精二は早稲田の教授になり、英文学者として、ポオの全集翻訳で評価を固めたが、戦後すぐの頃まで、現役の小説家だった。だから、昭和戦前、まだ潤一郎が「文豪」の評価をほしいままにする前から、精二との区別のために「大谷崎」と言われたと考えるべきなのである。

(前略)アレクサンドル・デュマ父子を「大デュマ」「小デュマ」、ピット父子を「大ピット」「小ピット」と呼ぶように、潤一郎を大谷崎、精二を小谷崎と呼んだのであって、だから本来は「だい谷崎」だったのだが、その起源が忘れられ、偉大な作家だから大谷崎だと思われるようになったのである。

 他に歴史上の人物では「大カトー」「小カトー」というのもあるしね。アレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラは「小ノゲイラ」と呼ばれているけど、あれはおそらくノゲイラ兄弟と比べるとサイズが小さいせいなんだろうな。…話を戻すと、「もっとも“大森”とは言いにくい」というのもヘンで、森鷗外のことを「森」と呼ぶ人はあまりいないんじゃないか?と思う。普通は「鷗外」と呼ぶのでは。…しかし、谷崎潤一郎について書くんだったら小谷野先生の本を読んでおけばよかったのに。

 しかし、そのエラそうな雰囲気に似合わず、谷崎潤一郎という人物の性癖、ことに女性問題に関してのそれは、とても大つきで呼べるような立派なものではなかった。
 女性に対しての谷崎は非常に惚れっぽく、好きになると実も蓋もなく(原文ママ)ぞっこんになるくせに、すぐに飽きてしまい、飽きると顔も見たくなくなるというタイプであった。しかも、その好きになるという女がロリであり、Sであり、暴君であって、そんな女に乱暴な言葉を吐きかけられ、侮蔑されるのが好きだった。……これではただの変態オヤジである。しかも、その一方で、飽きて嫌い抜いた女に、女の方から嫌われるのが怖くて、つい手元に置いて囲い込んでしまうという、ホントウにどうにもどうしようのない、というタイプであった。

 「好きになるという女がロリ」というのは、つまり少女が好きだったということなのだろうか。後述するように谷崎は十代の女性と関係を持ったことがあるようだけど、それだけでロリコンと言えるのかは疑問だ。谷崎の代表作とされる『痴人の愛』も、少女を自分好みの女性に仕立てようとする話なので、どうもロリコンの発想とは思えない。

 もちろん、谷崎の凄いところは、ふつうだったらただの変態M親父の性癖であるそういう嗜好を元に、大文学作品を書き上げてしまったことである。今にいたるもセンセーショナルなその内容で多くの読者を惹きつけているその作品の名は『痴人の愛』。文芸映画として何回も映像化されているが、ポルノ映画の原作としてもしょっちゅう使われる。芸術院会員になったほどの人物で、作品がポルノ映画になるという人も谷崎くらいなものであろう。

 『痴人の愛』は今まで4回映画化されているようだが(1949年、60年、67年、80年)、いずれもポルノ映画ではない。で、この他に『痴人の愛』を原作にしたポルノ映画があるかというと、調べた限りでは発見できなかった。モトネタにしているというか、インスパイアされた作品ならありそうだけど。なお、谷崎原作の映画のうち、『卍』(1983年版)『白日夢』(1981年版)は成人指定を受けている。


 そして、この後、『痴人の愛』の内容を紹介するのだが、ここにも間違いがある。

 そのうち成長したナオミは男を家に引き入れ始める。嫉妬した主人公は彼女を追い出すが、寂しさに耐え切れなくなる。そんなときふらりと主人公の元にもどってきたナオミは主人公をひざまずかせ、約束させる。

 正確には、ナオミは譲治(主人公)を四つん這いにしてその上に馬乗りになるのである。有名なシーンなんだけどなあ。『痴人の愛』を本当に読んでいるのかどうか。
 …っていうか、そもそも唐沢俊一谷崎潤一郎の小説をひとつでも読んでいるのか?という疑問がある。『痴人の愛』以外にも「変態」的な作品はあると思うのだけどまったく出てこないし。それに、谷崎の性癖を紹介するにしても「足フェチ」がないのも気になる。

 読者のみなさんはこう考えるかもしれない。……確かに谷崎は変態かも知れないが、自分の心の中にある変態性を、そういう文学の形で昇華してしまうところが、文豪と呼ばれる作家の凄いところなのでは? と。
 しかし、谷崎は、昇華どころか、こういう作品を書きながら、実生活でもその変態性振りを発揮していた。

 として、いわゆる「細君譲渡事件」を説明していくのだが、これはスキャンダルではあるものの「変態」として紹介していいものかどうか気になる。

 彼らは、妻の千代も連名で、それを各マスコミに通知しさえした。新聞に載ったその通知を見て、当時の世間は驚愕し、センセーショナルな騒ぎになった。

 このことについては、松本清張『昭和史発掘』(文春文庫)2巻P.282に次のようにある。

実は新聞に公告をしたのではなく、前記の通り、知友人間に配った挨拶状が紙面に載っただけである。しかし、今でもそう信じている人は少なくない

 『昭和史発掘』の中で引用されている『朝日新聞』1930年8月19日の記事にも「知友にあてて次のごとき声明書を発表した」とある。小谷野先生が作成した谷崎の年譜には

18 日、千代と離婚し佐藤に与えるという挨拶状を各新聞社その他の関係方面へ送る。

とあるので「知友」に新聞社も含まれる、と考えればいいのだろうか。

彼(引用者註 谷崎)が妻(引用者註 千代夫人)に対してつらくあたっていたのは、結婚してから、彼が理想とするタイプの女性と出会ってしまったことが原因だった。引き比べて、どうしても妻の千代に不満がたまるのである。皮肉なことに、その、谷崎が理想とするタイプの女性というのは、千代の妹のおせい(せい子)であった。

 谷崎は石川千代の姉である初子と結婚しようと思っていたが、それがかなわなかったために妹の千代と結婚した。しかし、千代は姉とは違っておとなしい性格だったために谷崎は失望したらしい。だから、千代は妹よりもむしろ姉と比較されたのではないだろうか。

 せい子は千代の妹だったが、顔も性格も、千代とは全く似ていなかった。15歳で谷崎夫妻の家に同居を始めたが、すぐに小悪魔的な資質を発揮して、周囲を煙に巻いていた。谷崎はこの幼い悪女に一目ぼれし、憧れて、彼女が成人するとすぐに千代に隠れて交際をはじめた。

 「煙に巻く」ってどういう意味で使っているんだろう。goo辞書より。

けむ 【▽煙/▼烟】
〔「けむり」の略〕「けむり(煙)」に同じ。
——に巻・く
信じがたいことや相手がよく知らないようなことを言って、相手の判断力を狂わせる。

意味通るかなあ。

 あと、さっきは谷崎のことを「好きになるという女がロリであり」と書いていたのに、どうして谷崎はせい子が成人するのを待っているんだろう。実際のところ、谷崎はせい子が十代の頃から彼女と関係を持っていたようだ。

 そうすると谷崎はその家に泊まりこむようになり、何日も居続けをするようになった。小田原の家で千代は寂しい思いをしていたが、その小田原の家に泊まり込んで千代を慰めていたのが佐藤春夫だった。二人の仲は誰が見てもあきらかであり、なんと一緒に風呂にまで入る関係であったという。もっとも、松本清張『昭和史発掘』によると、驚くべきことに、そんな間柄でなお、二人はプラトニックなままだったというのだが、ちょっと信じられない。

 谷崎が『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』の中で、佐藤春夫と千代夫人が一緒に入浴していたこと、プラトニックな関係だったことを認めているのだから、わざわざ『昭和史発掘』に拠る必要はないだろう(『昭和史発掘』の中で該当する文章が引用されている)。

 この二人の関係は谷崎も承知だったようだ。彼はあれだけ虐待していた妻を一人にしたことに罪悪感を持ち、佐藤にその妻を譲ろうとさえした(谷崎はその前年にも作家の大坪砂男に千代を譲ろうとしている)。だが、その話も結局、せい子が谷崎との結婚をいやがったために流れ、谷崎はせい子も千代も失うことを恐れ、約束をホゴにする。つくづく勝手な男である。怒った佐藤は谷崎と絶交し、神経を病んで故郷に帰る。

 …ああ、これはダメだ。唐沢は「小田原事件」と「細君譲渡事件」をゴッチャにしている。簡単に説明すると、谷崎が佐藤春夫に千代夫人を譲ると約束していたのに、その約束が守られなかったために2人が絶交することになったのがいわゆる「小田原事件」で、これは1921年3月の出来事である。谷崎が大坪砂男(和田六郎)に千代夫人を譲ろうとしていてダメになったのが1929年2月(この経緯を元にして書かれたのが『蓼喰う蟲』)。そして、その翌年の8月にいわゆる「細君譲渡事件」が起こっているのである。…唐沢の書き方だと、「小田原事件」の前年に谷崎が大坪に千代夫人を譲ろうとしていたことになってしまう。なお、ついでに書いておくと、せい子は1902年生まれなので、唐沢が前に書いていたように「彼女が成人するとすぐに千代に隠れて交際をはじめた」とすると、「小田原事件」以降に2人の交際が始まったことになってしまうので、唐沢の先の記述はやはり誤りであり、谷崎とせい子の関係は彼女が未成年の時から始まっていたと考えるのが妥当だろう。

 だが、5年後の昭和5年、二人は突如和解し、冒頭に挙げた通知を発表した。谷崎が、その後も続けた女遍歴の果てに、やっと理想とする女性、根津松子と知り合って結婚することになったからである。

 …さあ、どこから指摘していったらいいものか。まず1つ目。谷崎と佐藤が和解したのは1926年。「小田原事件」の5年後であることは合っているけど。
 2つ目。「冒頭に挙げた通知」とあるが、「細君譲渡事件」の通知について紹介されているのは、今回のコラムの中盤においてである。…「冒頭」の意味がわかっているのだろうか。編集者もちゃんとチェックしなきゃ。
 最後。谷崎と森田(根津)松子が結婚したのは1935年。「細君譲渡事件」の5年後であり、谷崎が松子と結婚する前に古川丁未子と結婚していたことをスルーしちゃ困る。

 千代はその後佐藤と幸せに暮し、二組の夫婦共に円満な家庭を築いた。だが、谷崎はその後も浮気を繰り返し、死去する直前も妻を置いて若い女の子と外出していたという。

 谷崎が死の直前に若い女性と出かけたことについては、松子夫人が谷崎の死後にエッセイで取り上げているので有名なのかもしれないが、伊吹和子『われよりほかに』(講談社学芸文庫)によれば、この「若い女の子」というのは谷崎家のお手伝いさんとのことで、谷崎も大きな手術をしたばかりで体力があったとも思えないので、これを「浮気」に含めるのはいかがなものかと思う。



 …今回のコラムの問題点は谷崎潤一郎についてそんなに詳しくないうえに調べた形跡がない」「谷崎を変態にしようとしすぎ」というところだろうか。『世界ヘンタイ人列伝』は毎回そんな感じだけど。引用した部分のほかにも、谷崎の変態性を強調しようとした部分が実に多いので、谷崎ファンは読まないほうがいいかも。…まあ、『熱写ボーイ』を入手するのは大変だから余計な心配かもしれないけど念のため。

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・初めての方は「唐沢俊一まとめwiki」「唐沢俊一P&G博覧会」をごらんになることをおすすめします。

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