唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

非実在の沈黙。

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 『社会派くんがゆく!』最新号より。東京都の青少年健全育成条例の問題について語っている。

唐沢 ただね、オレも文筆業のはしくれとしてこんなずさんな規制には徹頭徹尾反対だが、いったい何で、こんなトンデモ法案を提出する奴がいて、それに賛成する奴がいるのか、何度廃案にしてもまたぞろ上がってくるのかを、ロリコン諸氏もじっくりと考える時期だと思うんだよ。世の中には性欲というものを抱くこと自体を悪だと認識する宗教だってあるんだな。しかもこの宗教が何と、世界の強大国家のほぼ全てを支配している。なにしろ、信者数だけで24億人と、世界の三分の一を越している。ちなみにキリスト教という宗教なんだが(笑)、この宗教はトンデモないことに、外面に出ない、内心の性欲までをも罪と定めている。「色欲をもって女を見たる者は、すでに姦淫したるなり」(マタイ伝)てやつだよな。敬虔なキリスト教徒の中には、姦淫の罪を犯さないようにと目をつぶって歩いてドブに落っこちたり、母親の顔も見ないようにしたりした奴もいたらしい。こういう倫理の下に成立している宗教にとっては、ロリコンなんて趣味の奴は外道鬼畜の人権侵害野郎なのだよ。オレは捕鯨ロリコンの問題は同一だと思ってる。これは欧米のキリスト教倫理の暴走なんだよ。それを押し付けることで、世界を宗教的に支配しようとしているわけなんだな。

 「ロリコン諸氏」ってどうして反対派がみんなロリコンだと思っているんだろうちばてつや呉智英ロリコンか? そして、キリスト教が性描写を規制しようとしているとしても、それに対してどうやって対抗すればいいのだろうか。


 中井国家公安委員長のスキャンダルについて。

唐沢 「週刊文春」がいろいろ探っていたよ。もともとは野党だった旧民社党の出身者だけに清廉な人格だったそうなんだが、羽田内閣で政権与党を経験し、がらりと人間が変わって、女遊びを始めたらしいんだな。やはり待遇が野党と与党ではまるで違うらしいんだ。それが男一匹、狂わせた。罪な話だよ。……思うんだけど、少なくとも独身の政治家には、国が負担して女をあてがうべきだと思うよ。大奥とか喜び組みたいなもんは、ハニートラップ阻止用としても必要だよ。

 「野党」だから「清廉な人格」というのがヘン。最近だと社民党(発覚当時は野党)の又市征治のスキャンダルもあったし、野党にも「カネの問題」は当然存在するだろう。

唐沢 でも、オレ、今まで「ミンス党」とか言ってさんざんアンチ民主を掲げてきたネット住人たちが、今回の条例を聞いていきなり「みんなで都議会の民主党議員に陳情に行きましょう」とか言ってるのを見ると、こいつらの方こそ「矜持はないのか」って言いたくなるよ(笑)。

 「ネット住人」がみんな揃って「アンチ民主党」で「規制反対派」なわけでもないと思うのだが。

唐沢 オレ、基本的にはオタクの権利を守る側にいたいと思う人間なんだけど、今までの歴代のロリ規制のやりとりから見ていても、規制派も反対派も双方から歩み寄ろうとした形跡がまったく見えないんだよね。お互い摺り合わせて妥協案を見つけるというのがいちばん現実的なやり方のはずなのに、「規制する」といわれたら「ふざけんな!」って感情的反応示すだけで(原文ママ)、どこまで行っても平行線のまんまなんだよね。これが政治的な対立なら、相手をどこまでも追いつめて解党に追い込んでしまうってことが出来るけど、一般人を全部なくしてオタクだけの社会にすることなんか出来っこないじゃない。で、あれば、ロリを嫌悪する一般人との協調、共存を考えていかなくちゃならないわけよ。

 …これでさっき「ロリコン諸氏」と言っていた理由がわかった。唐沢俊一は今回の都条例の問題を過去の児童ポルノ規制といっしょくたにして考えているのだ。だから、ところどころおかしなところが出てくるのだ。なお、唐沢俊一は過去に児童ポルノ規制についてコラムを書いているので、次回紹介してみるつもり。
 …しかし、賛成派も反対派も「感情的反応」しかないって決め付けてるのも妙な話だなあ。反対派には条例の問題点を論理的に指摘している人も多かったと思うけど。久々に「妖怪どっちもどっち」のお目覚めか? 唐沢俊一が本当に「オタクの権利を守る側にいたいと思う人間」だとしたら両者が納得できる妥協案を提示してみればいいと思うよ。

唐沢 おや、ロリ嫌いを自認していた鬼畜なのに、理解を示し始めたね(笑)。それは全くその通りで、村崎さんだって納得させられたんだから、政府や子供を持つ一般人にも、ロリが決して危険な存在ではない、ということをわからせる手段はある筈なんだ。だけどね、それには本当に、地道な、地べたに向ってモノを言うような姿勢が絶対に必要なの。ところが、例えば反対集会での識者なる人たちの解説を聞いても、何か、高みに立って、「君らは頭が悪いからロリを非難する。この説明を聞いて賢くなりたまえ」と言ってるようなインテリ臭がぷんぷん匂うんだよな。規制側はそれじゃ実感として納得できないと思うんだよね。理屈や数字でいくら攻めても、過激な描写見せられること(原文ママ)のビジュアルインパクトのほうが圧倒的に強いわけだから。

 いや、それは唐沢俊一がインテリを嫌っているだけだろう。「裏モノ日記」2004年1月14日にもこんなことが書かれている。

今回の敗訴は、あきらかに法廷戦術のミスであったと思う。新聞はどこも、被告側が宮台真司斎藤環といった文化人を特別証人として法廷に呼び、証言をさせたということを報じているが、こういったマスコミ文化人というのは、一般人の無知・無教養を指摘して皮肉ったり小馬鹿にしたりということを芸風にしている連中である(人のことは言えない、私なんかもその一員である)。事実、宮台氏の証言内容を読んでみたが、法律家に向かって法解釈を説く(宮台真司証人尋問調書第4頁)などというのは、彼らのプライドを傷つけて憎しみを抱かせる、被告側にとっての自殺行為でしかない。これだから学者というのはダメなのである。法律の権化を以て任じている裁判官たちが、こういう人たちの言を聞いて素直に“ああ、自分たちのわいせつに関する法律的認識は古かった、自分たちは愚かであった”と思うか、と言うと、そんなことは絶対にない。裁判は朝まで生テレビとは違うのである。裁判官をいくらバカと証明しても仕方がない。法廷の場に立った時点で、こっち(被告)の運命を握っているのは彼らなのだ。そして、まずいことに宮台氏が言っていることは100パーセント正論である。人間、最も相手に対し憎悪を抱くのは、正論で論破されたときである。正論を述べるにもTPOというのはあるのである(感情的被告擁護論者の諸君、あくまで“法廷戦術”のことを言っておるのだからね)。

 かつて野坂昭如が『四畳半襖の下張』裁判で訴えられたとき、やはり丸谷才一だの吉行淳之介だのといった豪華メンバーが、見事な話術、見事なロジックでわいせつ文学を弁護したことがあり、マスコミには大ウケであったが、判決には何のタソクにもならなかった。裁く方もチャタレイ夫人裁判の頃から進歩がないが、裁かれる側の戦術もつくづく、進歩がない、著名文化人の登場など、マスコミ向けパフォーマンスとして以外の意味はない。控訴審以降のやり方に関してはかなり改めてかからないと、 今後とも勝利をおさめることは難しいだろう。

 これはかなり奇怪な批判である。法廷で法律論・法解釈を唱えて何が問題があるのだろうか。宮台真司情状酌量を求めているわけでもないだろうに(宮台真司の意見書)。裁判官が正論で論破されたのに腹を立てるというのも凄いけどね。それに、唐沢俊一に「法廷戦術」の何がわかるというのか。伊藤剛さんに訴えられたときにどういう戦術をとったのか聞いてみたいよ。
 「チャタレイ裁判」にしろ「四畳半襖の下張裁判」にしろ、「芸術か猥褻か」が問題になった裁判で文化人が主張したことは決して無駄にはなっていない(有斐閣判例六法』にどっちの裁判も判例として載っている)。伊藤整澁澤龍彦(『悪徳の栄え』裁判)が戦うことなく頭を下げていたら、表現の幅が狭められてしまっていた危険性は高いのだ。先人達の努力に理解を示すことなく、「裁判で負けたら全て終わり」みたいな言い方をしているのはあまりに傲慢だ。唐沢だって恩恵は受けているんだから。
 結局のところ、唐沢の文章は「インテリがエロ漫画を擁護するのが気に食わない」という話でしかなくて、今回の都条例の問題でも同様の理屈を展開させているわけだ。

唐沢 こっちに表現の自由を叫ぶ権利があるなら、あっちにも危険な表現から目を退ける権利があるわけ。オレだって韓流ドラマとかもう見たくもないし、ああいうのを輸入するのを規制してくれないかって思うんだけど(笑)、あれを見たいというオバ様方がたくさんいる以上、しょうがないよね。だから、互いの権利を尊重して折衷案を決めることがいちばん現実的で大人なやり方であるはずなのに、今は規制派も反対派もヒステリックに自分たちの権利を押し通して、相手を全否定しようとしているだけでしょ。両方とも子供なんだよ。お互い感情的な反応をぶつけあってるだけで、そこから先に進めない。

 だから、どうしてどっちも「感情的な反応をぶつけあってるだけ」にしてしまうのか。唐沢の脳内にいる非実在規制反対派」は感情的な反応しかしていないのかもしれないけどさあ。ちゃんと両者の言い分をチェックしているのか? それに反対派も「ゾーニング」は否定してはいないだろう。

唐沢 考えたらもともとロリ嗜好だって、「未成熟の少女は性的対象にならない」という暗黙のルールを逸脱しようと動きから生まれたものだからね。「ナメクジやカタツムリは性的対象にならない」というルールを逸脱しようという気概さえあれば、慣れさえすればできないことではないよな(笑)。

 そんな動機付けをしてから「未成熟の少女」を好きになるものなのか? 好きという気持ちが先にあるんじゃないだろうか。

唐沢 昔、性医学者で押鐘篤って人がいて、この人は徹底した男尊女卑主義者で、女性に参政権なんぞ与えるな、と主張していた。その後、婦人代議士がエロ出版を規制する法案を出したときに、「そらみろ、私の言っていたことは正しかった!」と勝ち誇っていたけどね(笑)。何か、今回の非実在青少年法を通そうとしている女性たちのヒステリックな論調を聞くに、押鐘センセイの意見が正しかったんじゃないか、という気になってくる自分をなかなか止められない。

 …こういうことをポロッと言っちゃうのは迂闊すぎる。担当の河田周平さんも止めてあげないと。「鬼畜」と思慮が足りないのは違うはずなんだけど。
 

唐沢 だからといって「子供がいる親の気持ちを考えたことがないのか」って問われたら反論できないし、そこらへんは解決というより、妥協が必要なんだろうね。だから子供の手が届かないところでうまくカテゴライズしていこうという声もあるみたいだけど、規制反対で頭パンパンになっちゃってる人たちからは裏切り者呼ばわりされるみたい。

 誰が裏切り者呼ばわりされているのか教えていただきたい。テレビ東京の『週刊ニュース新書』で本そういちが「親の立場」から条例について懸念していたをたまたま見たけどなあ(司会の田勢康弘が都条例について語っていたので笑っちゃったけど)。

唐沢 表現の自由を標榜するなら、すべての表現の自由も認めないといけない。たとえば、ロリを肯定するならば、障害者を抹殺するような小説とか、身分差別を肯定するような漫画を書くことも肯定しないといけないわけ。そこネグって性描写だけ認めろって言い分は、オレは甘いと思う。ロリはロリ規制に反対するばかりじゃいけない。全ての表現規制に反対しないといけない。そこらへん、甘いというか腰の据わっていない反規制派が多いので、どうにも歯がゆいんだなあ。

 また「ロリ」か。しかし、「障害者を抹殺するような小説」とか「身分差別を肯定するような漫画」とか自分で勝手な設定をこしらえておいて「ネグ」るもないもんだ。

唐沢 そういう規制っていうのは、常に正義の仮面を被ってやってくる。「と学会」はトンデモ本を笑っているけど、トンデモ本を規制しようとしているのではないわけよ。どんな表現であろうと、それが優れているものでも劣っているものでも、正しいものでも間違っているものも、表現の名の下にすべては野放しにされないという原則はあると思うんだけど、少なくとも「水にありがとうって言葉をかけると綺麗な結晶ができます」って本を教育の場に置いちゃいけない。それの発表の場はちゃんと区分けしましょうよって話。

 唐沢俊一検証blog」も唐沢俊一を笑っているけど、唐沢俊一を規制しようとしているわけではありません唐沢俊一は自分が「悪意」で検証していると思っているようなので念のため(もっとも「善意」でやっているわけでもない)。

唐沢 こないだ頼まれて何冊かラノベ系の小説を読んでみたんだけど、ホントに単純な構造でね、最初にこれこれこういうキャラだからと設定された主人公は、最初から最後までその設定のまま。物語を通して主人公が成長していくみたいなディケンズ的な展開なんてありえない世界になっている。

 いったいどんなラノベを読んだのか知らないけど、主人公が成長していくラノベだって当然あると思うのだが。…そういえば、唐沢俊一は『エヴァ』のことも「主人公が成長しない」と批判していたから、「いまどきの作品」を批判する時の論法なのかもしれない。

唐沢 「ラノベの設定で、主人公の男の子に寄ってくる女の子の数が十人以下である小説は売れない」って言っていた人がいたけど、そこまで縛りの多い執筆作業なんだ。とてもじゃないが、われわれの世代には無理だよね。

 唐沢と同世代でも「縛りが多い執筆作業」をしている人は多いのでは。

唐沢 昔はマンガやアニメに親しんだ子供たちが「もうちょっと知的なものを」ということで小説を読み出したわけだけど、今はマンガやアニメのほうが高度で複雑な構成になっているものが多いから、逆にラノベ系小説がいちばん頭を使わなくて済む娯楽になっちゃってるよね。

 …だから、どんなラノベを読んだからそんな風に言うのか。ロバート・ケネディ大統領」「縄文人が古墳を造った」とか頭を使わずに執筆している人に言われても。解読しているこっちの方が頭を使うよ。

唐沢 母性を徹底的に否定してきたのが戦後の日本の女権運動であり、さらに言えば「個性尊重、何よりも個人の自由が大事」という個人主義もそこから生れてきたんですよ。そこで、「子供よりも自分が大事」と言う母親が出てくるのは、別に不思議でもなんでもない。さらに言えば、封建主義にあった「公」の思想が母性のスタンピートを止めてきたのに、その公すら消失してしまったから、モンスター・ペアレントというのが生れる。

唐沢 損得勘定以前に、単に自分の感情の奔流を止められないってだけでしょう。今いちばんスタンピートを起こしやすくて、しかも誰もそれを止めるものがないっていうのは、個人の感情だからね。

 「スタンピード」。あと、子供の虐待は最近に限った事件ではない。…こういう風に教育や運動を批判する理屈は保守派っぽいのだけど。

唐沢 誰の言ったことが忘れたけど、「昔は子供の青っ洟を母親が口で吸った」っていうんだよね。オレはそのときの母親には、しびれるような快感があっただろうと思うんだ。もうちょっと今の日本人は、儒教的な縛りから得られる快感に目覚めるような意識を持ったほうがいいと思う。そう考えると、非実在青少年条例に反対している人たち、みんなやる気満々で楽しそうだしね(笑)。あれでいいとは思わないが、あれも思想信条の自由として、ああいうことを言う奴らの自由も守らないといけないわけ。俺がいまいち、気軽に、というか積極的に表現の自由を口に出来ないのは、その覚悟果たして己にありや?という部分でいまいち自信がないからなんだが、軽々しく表現の自由表現の自由と言ってる連中って、要するに自分の表現の自由のことしか考えてないんじゃねえの?そこらへんを問いたい奴らが、少なくとも身の回りに十数人はいるんだよ。

 …要するに、唐沢が条例反対派にイチャモンをつけているのは「インテリがエラそうなことを言うのが嫌」「運動で盛りあがっているのがウザい」ということなんだろう。まあ、唐沢が自分の「表現」に自信が持てないのはいたしかたのないことだし、唐沢も条例に反対すべきだとも思わない。ただ、「どっちもバカだ」という風に自分だけエラそうな態度をとるのはいかがなものか?と思わざるを得ない。反対派を揶揄するなら自分から現実的なアイディアを出してみればいいのに。あと、ラノベを何冊か読んだだけで「ラノベってこういうものだ」と決め付けるのもなかなか凄い。


 青少年健全育成条例についてはみなさん興味をお持ちだと思うので、お気づきの点があれば指摘していただきたい。次回は今回の記事と関連した問題として、唐沢俊一が過去に児童ポルノ規制について書いたコラムを紹介したい。

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