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唐沢俊一検証blog

2010-05-01

追討P&G唐沢俊一。

22:48

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 休めねー、デイブ・メネーと言いつつやってみる。

 

唐沢俊一による井上ひさしの「追討」

私の一生のうちの三分の一は、この人の才能に驚いてばかりだった。

ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョこそ人生で最初に

「こういう人になりたいものだ」

とあこがれた人物だった。

『長靴をはいた猫』を観たときは、こういう映画を自分は作りたいんだ、

と真面目に思った。

『ブンとフン』を読んだときは、小説は真面目でなくてはいけない、という

概念をぶち壊された。

『表裏源内蛙合戦』を読んだ(戯曲集で)ときには、舞台というものは

ここまで楽しいものなのか、と思った。

ムーミン』の主題歌を聞いたときには、あそこまで単純な歌詞をあそこ

まで技巧的に使う、そのテクニックに舌をまいた。

『薮原検校』を観た(舞台で)ときには、ここまでどろどろとした人間の

怨念を笑いで表現することが可能なのか、と驚いた。

井上ひさしの才能は本当に輝いていた。こういう人を天才と言うのだろう、

と素直に信じていた。

あれ? と思い始めたのは『四捨五入殺人事件』くらいからだっただろうか。

面白いことは面白いのだが、あまりに露骨に農家を国の政策の被害者という

神聖な立場に置き、無謬に彼らの行なうことを正当化しているその姿勢に

首をかしげざるを得なかった。そのちょっと前あたりから、氏は如実に、また急速に

反戦反核反体制の典型的知識人へと傾斜していっていた。

反戦平和もいいだろうが、彼の説く平和理論はあまりに理想的に過ぎ、

また原理的に過ぎて、ツッコミを入れるというより先に論理が破綻しており、

こういうことに関して書くとき、この人は理性というものが働かなくなる

のではないか、とさえ思わせた。

北朝鮮への経済制裁にも真っ先かけて反対を唱えていた。かの国が農本主義

の国だからだろう。

そして、そのあたりから、彼の書く作品は首をかしげざるを得ない

ものが多くなっていった。

平行して、彼の遅筆は加速され、書けないいらつきを家庭内暴力

で発散させるようになり、妻や娘たちにも背かれていった。

圓生志ん生』(原文ママ)は、満州に渡った昭和の落語の二大名人を主役に据える

という素晴らしいアイデアをさっぱり活かしていない凡作で、

しかも、新聞の批評に“落語の知識がない”とけなされたことをよほど腹に

据えかねたのか、単行本のあとがきに、それへの反論“のみ”を激語で書き

つけるという異常ささえ見せていた。

僕の、あのあこがれの作家だった井上ひさしはどこに行ってしまったんだ、

とずっと思ってきた。好きだったから、ずっと読み続けてはいたけれど、

読み続けること自体が苦痛になってきていたのがこの十年の年月だった。

4月9日死去、75際。

75という享年はいかにも若い。しかし、何か訃報を聞いて、

ホッとしてしまった、というのが正直なところなのが

悲しくてたまらない。

井上ひさし関係の作品でベストを一作上げれば、必ずしも傑作では

ないけれど、甘くほろ苦い青春時代を描いた『青葉繁れる』を

あげたい。岡本喜八の映画化作品がまた、テンポよくこの作品をまとめて

映像化していて、佳作という言葉がにあう、素晴らしいものだった。

冥福を祈る、とはクリスチャンである氏に使うのは適当でない言葉かも

しれないが、今はただ、あの世で政治や戦争のことは頭から洗い流し、

あの才知の冴え渡った初期脚本の輝きをまた取り戻して欲しい、と

切に祈るものである。

 まず、最初に気づくのが吉里吉里人』が挙がってないこと。あれは井上ひさしのファンでなくても読んでいる作品だと思うけどなあ。

 第二に、『四捨五入殺人事件』をチェックしてみたが、確かに日本の農業がテーマとして大きく取り上げられているが、農業政策を批判するだけではなくそれなりに相対化されているように思えた。新潮文庫版P.184より。

 藤川は反論を試みた。農民が被害者であることは百も承知であるが、藤川は〈一〇〇%わたしどもが被害者でござい〉という、いまこの国で大流行の論法には批判を持っているのである。

 まあ、唐沢俊一社会的な問題が大きく取り上げられていることが単純に気に食わなかったのだと思う。…っていうか、長年ファンだったという割りに『四捨五入殺人事件』で井上ひさしのいわゆる「反権力指向」に気づいたのはちょっと鈍いんじゃないか?と思う。自分は中学生のころに井上ひさしの作品をよく読んでいたけど、『偽原始人』『野球盲導犬チビの告白』とか2,3冊読んだあたりで気づいたけどなあ。

 第三に、『円生志ん生』の単行本(集英社)の「あとがきに代えて」という文章は、唐沢俊一が言うほど「異常」なものなのだろうか。以下全文を引用してみる。

 禁演落語とは、正確には、別の言い方をすれば、情報量をうんと多くして説明すると、<昭和十六年、折りからの戦時色にふさわしくない演題は遠慮した方がいいと考えた落語関係者たちが、浅草本法寺に「はなし塚」なるものを建て、そこへ葬るという形をとった五十三種の演目をいう。うち三十一種が廓ばなしだった。当局側も、「時局に合わせようというのはまことに殊勝な心がけである。国家としても、その五十三種の演目が高座にかからぬように目を光らせていることにしよう」と、取り締まることになった。>となるだろう。

 けれども、舞台でこんなことをくどくど説明しているわけには行かない。説明している間、舞台に流れるその芝居特有の劇的空間が止まってしまうからだ。そこで、そのことを口にする登場人物の性格や立場で、<これはやってはいけませんと、お上が決めた落語五十三、ある。>と情報を削り、劇的空間の流れを保持しようとする。これが戯曲の文体なのだ。

 この禁演五十三種のなかに、『子別れ』という名作がある。これも情報量を多くすると、<『子別れ』は上、中、下の三部に分かれていて、禁演と決められたのは女郎買いを扱った上の部である。>となるが、こんなことを芝居の中で説明していたのでは、時間が止まり、それまで築き上げてきた文体のリズムが狂う。そこで、<『子別れ』も、その五十三種のうちの一つ>と短くする。情報を削るのが劇作家の大事な仕事なのである。

 ところが、新聞記事の文体と戯曲の文体の区別もできずに、「作者は『子別れ』が上中下に分かれていることも知らずに書いている。その一事から見ても、この芝居はだめだ」と評した新聞劇評があった。冗談は止したまえ。そんなことも知らずに落語の芝居が、志ん生を主人公にした戯曲が書けるものか。演劇を知らずに劇評を手がけるという恐ろしいことが幅を利かしているのは、ばかばかしいことである。

 「あとがきに代えて」という文章を反論のためだけに書いているのは確かだし、井上ひさしの怒りも伝わってくる。しかし、その一方で、この反論がきわめて明瞭かつ丁寧に書かれたものであることを無視してはいけない。誰にでも理解できるように「情報量をうんと多くして説明して」いるということは、井上ひさしの言い分に同調するか否かは別として認めなくてはならないだろう。少なくとも、よそのブログで長々とコメントしたにもかかわらず、結局自分が大学を卒業したかどうかもまともに説明できない唐沢俊一井上ひさしを批判する資格はない(4月9日の記事を参照)。

 もうひとつ気になるのは、唐沢俊一はどうして『円生志ん生』が凡作だと決め付けているのだろう。「裏モノ日記」を見る限り、舞台を観にいった様子も原作を読んだ様子もないのだけれど。ちなみに、唐沢俊一版『円生志ん生』を紹介しとこう。「裏モノ日記」2006年12月9日より。

シルバー假面』の話になって、

「続編が出来ればいいなあ」

という話から、中野監督、続編は満州を舞台にして川島芳子を出そう、でもただ出すだけじゃ面白くない、という話になり、やはりここは『仮面ライダーX』風に怪人にしちゃうべきだろう、という話になる。

「大体、李香蘭なんて名前からして怪人ぽい」

「いいですね、“ムカデリコウラン”!」

で大笑い。

「あのころの満州には円生志ん生がいた筈だからこれも怪人にしちゃおう」

森繁久彌もいましたねえ」

「他の怪人が先に死ぬと“神様は残酷だ!”と嘆く」

などとワイワイ。

舞台化希望。

 この件に関しては「トンデモない一行知識の世界」藤岡真さんのブログを参照。過去の「追討」との矛盾や「追討」のパターンが見えてくるのが興味深い。

 …個人的には、子供の頃に楽しませてもらった人に対しては、大人になった後でも悪口を言ったりする気になれないので、唐沢俊一の考え方がよく理解できない。大槻ケンヂが、バンドの「追っかけ」の女の子はそのバンドを嫌いになるきっかけをいつも探している、と昔書いていたが、唐沢俊一の心理もそれと似ているのかもしれない。いずれにせよ「昔は才能はあったけど晩年は不幸だった」という「追討」が多発するのは、故人に問題があったのではなく、唐沢俊一の方に問題があるのだと思う。唐沢俊一だってそんな風に「追討」されたくないだろうに。

 余談だが、『ブンとフン』には一通の匿名の投書によって盗作が発覚し、作家生命を絶たれた山形東作という「天才小説家」が出てくる。誰かさんのことを連想するが、山形東作は東京大学在学中でルックスがいい(リチャード・バートンより上品でスティーブ・マックイーンより野性的)というからやっぱり違うのかもしれない。


頭痛肩こり樋口一葉

頭痛肩こり樋口一葉

吉里吉里人(上) (新潮文庫)

吉里吉里人(上) (新潮文庫)

四捨五入殺人事件 (新潮文庫)

四捨五入殺人事件 (新潮文庫)

偽原始人〈上〉 (井上ひさしジュニア文学館)

偽原始人〈上〉 (井上ひさしジュニア文学館)

野球盲導犬チビの告白 (文春文庫)

野球盲導犬チビの告白 (文春文庫)

円生と志ん生

円生と志ん生

ロコ! 思うままに (角川文庫)

ロコ! 思うままに (角川文庫)

ブンとフン (新潮文庫)

ブンとフン (新潮文庫)

discussaodiscussao 2010/05/02 10:47 >『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョこそ人生で最初に
>「こういう人になりたいものだ」
>とあこがれた人物だった。

ひょうたん島の挿入歌で
「俺のものは俺のもの 人のものも俺のもの ご機嫌だぁ〜♪」
てなヤツがあった。熊倉一雄が歌ってた気がするけれど、ドン・ガバチョの歌じゃなかったよ。唐沢俊一や岡田斗司夫が歌うと洒落にならない不穏当さがあるから、もし今後オタアミなんかで人前に並ぶことがあるなら合唱して欲しいね。

あといちおうオタクだとかアニメだとかの看板背負ってるんだから、取り上げる作品としては『忍者ハットリくん』やスラップスティックの快作『ピュンピュン丸』、作詞で『ひみつのアッコちゃん』を落としてるのはマズイでしょ。
あと、ひょうたん島やネコジャラ市の頃から、井上ひさしって左翼教条主義的な傾向はあったと思うけれど、この当時の「民主的な」作品は多かれ少なかれそういう心情を有しており、唐沢俊一のようにことさら井上作品のそれを指摘する手法には違和感がある。原武史『滝山コミューン一九七四』のような生活スタイルとは隔絶した少年時代だったのでしょうね。

yonocoyonoco 2010/05/02 19:07 想像するに、今回は「俺が見つけた」パターンと「不幸な晩年」パターンが合成した追討なんですかね?

どちらにしても失礼な事にかわりありませんが(誰だろうが、冥福を使うのは追討がルーチンワークになってるんでしょう…)

やまだやまだ 2010/05/02 21:08 昔、ミュージカルの有名な演出家の先生がこんなことを仰っていました。
「日本の劇評は、新聞記者が書いているからダメだ。
 しかも彼らの属している文化部は、政治部や社会部といった花形の部署に付けなかったやつが行かされる処だ。
 別に演劇が好きでもないのに担当させられるやつもいるのだから、困ったものだ。」

 まあ、唐沢を書評委員にしていた奇特な新聞社もありましたし。

shimojoshimojo 2010/05/02 23:40 「あとがきに代えて」
 怒っている文章を読まされるのは気分がいいものではありませんが、これなら批判者も、批判の内容も、それに対する反論もちゃんと具体的に書いていて、読者に内容が理解できます。

 「星を喰った男」(ハヤカワ文庫版)のあとがきは、誰がどういう内容の批判をしたのかはっきり書かず、感情的な罵倒の文章が書いてあるだけなので、まったく内容が理解できず、ただ不愉快なだけでした。

nyannnyann 2010/05/03 07:14 仮にもSF者を標榜しているなら『吉里吉里人』を挙げなきゃ嘘ですよね。
2ちゃんなんかで井上ひさしが異常扱いされてバッシングされていたのは、DVとか少年時代の動物虐待自慢が、
井上の戦後民主主義や平和主義と相容れないからであって、唐沢さんが異常って言ってるのはそれに比べれば全然異常じゃないし、
万が一まともな指摘だったとしても全然「訃報を聞いて悲しくてたまらない」ってほどのものじゃないと思うんですが。
井上ひさしが異常っていうネットの話題に乗っかろうとしたのが無知を露呈してこの始末だよ、っていうところでしょうか。

井上ひさしは、本宮ひろ志の政界ルポ漫画『やぶれかぶれ』の冒頭に近所の作家さんで登場するのが印象深いです。

NNTNNT 2010/05/03 15:02 本筋とだいぶ離れた事ですが、西村知美主演の『ドン松五郎の生活』の原作は井上ひさしでした。
続編も、これまた別のアイドルが主演で作られたし。
アイドル映画なのに犬が主人公のという、不思議な映画が作られていた時代がありました。
井上ひさし自身はどうでも良かったのでしょうけど。

汁恭子汁恭子 2010/05/03 16:50 唐沢なをき著『漫画家超残酷物語』(小学館)第6話『虎の威』より

このあさましいふるまいはすべて先生の才能という下駄の上に立った彼の自意識がやらせていることであった。
共に仕事をし、酒をのみ、タメ口をきくうちに先達の才徳と同じものが自分の中にも宿っていると錯覚することは、大変よくあるケースである。
人として随分気をつけなくてはいけないことだと思うが、どうか。

「イッセーなんて見る奴の気が知れませんなあ」発言などその典型だと思いますが
50過ぎて未だにそれが抜けきらないというのは。ちなみに同著には

すでに彼の、漫画に対して考えること、喋ること、パフォーマンス等はすべてが先生の借り物となり、、自身は空ろな、がらんどうになりはてていた。
彼を止めるものは今や誰もいない状態であった。

というフレーズもあります。
ンス

おヨよおヨよ 2010/05/03 19:16 汁恭子さんの投稿を読んで感じた事ですが、
今後、唐沢俊一の芸風を継ぐのは宇野常寛かも知れませんね。

汎音汎音 2010/05/03 23:25 井上氏の怒りの元になった劇評を私は読んでいませんが、少なくとも、「子別れ」が上中下にわかれていることなど落語好きにとっては常識以前のことであり、その程度のことを井上氏が「知らなかった」と判断した劇評者の方が、私には「異常」に思えます。そして、このような視点を持ち得ないまま、井上氏の怒りだけを異常扱いする唐沢氏も、私には「異常」に見えます。

minbuminbu 2010/05/04 03:03 井上ひさしさんの反駁については、腹に据えかねたのだろうという部分と共に、こちらの方が重要だと思いますが、井上ひさしさんなりのどう伝えるかという演劇論になっているのは、反駁でありながらやはり後書きにもなっている点で流石だ、という印象を持ちました。
それを異常というのは、日本語が読めないか、読み手の異常かだと思いました。

kensyouhankensyouhan 2010/05/04 18:24 コメントありがとうございます。

>discussao さん
ドン・ガバチョといえば、個人的には海水に砂糖を足して真水にしようとした人ですね。

>yonocoさん
追悼文を書くほど思い入れのある人がそんなにいるはずがないんですけどね。

>やまださん
新聞記者の友達がいればこんなにも便利なのか!とビックリ。

>shimojoさん
『星を喰った男』の文庫版あとがきは確かにひどいですね。怒りにまかせた文章でも、作家としての力量はわかってしまうものなんですね(あ、唐沢は作家じゃないか)。

>nyannさん
本当に「ずっと読み続けていた」のか怪しいところです。

>NNTさん
ソフトバンクのCMの「お父さん」のさきがけのようなものだったのかも。

>汁恭子さん
『漫画家超残酷物語』といい『まんが極道』といい唐沢俊一を連想するエピソードが多いのは不思議です。

>おヨよさん
「追討」「P&G」の他にもクリアーしなければいけない要素が多いので唐沢の芸風を継ぐのは難しいと思います。

>汎音さん
>minbuさん
井上ひさしの反論自体は別におかしくないと思いますけどね。

元エロ本ライター元エロ本ライター 2010/05/06 13:35 お世話になります。
唐沢がロバート・カルプを追悼していますが、この記述は川本三郎編著「脇役グラフィテイ」(今は亡きブロンズ社)内容がほとんど同じだと思います。
だいぶ昔に手放してしまったので比較はできないのですが、どなたかお持ちの方、比べてみてください。
唐沢の俳優に関する文章は、上記の本と石上三登志の「地球のための紳士録」から表現などを盗んでいる場合が多いです。
彼は英語が読めないので、外国に関する記述は日本人の既存の出版物のリミックスしかできないようです。

藤岡真藤岡真 2010/05/06 16:24 >元エロ本ライターさん

横レス失礼します。『脇役グラフィテイ』は持っておりますので(kensyouhanさんもお持ちなら余計なことですが)、検証してみたいと思います。結果は長くなると思うのでわたしのblogにアップします。

>kensyouhanさん

 悪しからず。

kensyouhankensyouhan 2010/05/06 17:19 コメントありがとうございます。

>元エロ本ライターさん
情報ありがとうございます。

>藤岡さん
あいにく『傍役グラフィティ』を持っていないうえに、来週まで手が離せないので藤岡さんにやっていただけると大変助かります。
いつも通っている図書館に『傍役グラフィティ』があるのを確認したので、暇になったら他の俳優の「追討」と比較してみようと思います。

個人投資家個人投資家 2010/05/10 21:44 >けれども、舞台でこんなことをくどくど説明しているわけには行かない。説明している間、舞台に流れるその芝居特有の劇的空間が止まってしまうからだ。そこで、そのことを口にする登場人物の性格や立場で、<これはやってはいけませんと、お上が決めた落語が五十三、ある。>と情報を削り、劇的空間の流れを保持しようとする。これが戯曲の文体なのだ。

 これは誠に正しいことであって、劇の流れを断ち切るような台詞は合ってはおかしい。
 
 演劇の絵の字も知らない評論家が、それを読み取れなかったとしては不思議ではないが、

 小劇場で役者として出演し、「演劇プロデューサーでござい」と公称するヒトが

>単行本のあとがきに、それへの反論“のみ”を激語で書きつけるという異常ささえ見せていた。

と書くのは、おかしい。
 一種の演劇音痴なのか?

kensyouhankensyouhan 2010/05/11 07:01 コメントありがとうございます。

唐沢俊一が脚本でどのようなセリフを書いているか気になるところです。


記事にするほどでもないのでここでお知らせ。
長いこと休んでしまっていますが、今週中にひとつ記事を書いて、来週から本格的に再開したいと思います。今後の目標は隔日更新。

S.KS.K 2010/05/12 23:35 >反戦反核、反体制の典型的知識人へと傾斜していっていた。

「ドン松五郎の生活」って北海道新聞の連載小説だったんですよね。
これも「狩られる野良犬と追われる過激派学生の共感」みたいな
描写があったんですが、唐沢先生は「空とぶゲバゲバ」に夢中で
新聞なぞ読んでおられなかったんですかねえ(ちなみに北海道で
『北海道新聞』が全く読めない環境というのはかなり特殊です)。

sideside 2010/05/13 08:27 はじめまして。

>無謬に彼らの行なうことを正当化しているその姿勢に
>首をかしげざるを得なかった。

無謬って……
強いて言えば「無批判に」あるいは「無邪気に」なら意味が通るでしょうかね。
無理に難しい言い回しを遣おうとする人なんでしょうね。
「すべて」と書けばいいところを「すべからく」と誤用して恥をかくタイプ。

kensyouhankensyouhan 2010/05/14 08:53 コメントありがとうございます。

>S.K さん
本当に「ずっと読み続けてはいた」のかどうか。

>sideさん
「すべからく」の誤用は呉智英の本を読んでいればさすがにやらないんじゃないかと。実際問題、自分の身の回りでも誤用している人が多いので、呉先生の教えをもっと広めなければ。

おヨよおヨよ 2010/05/15 10:35 唐沢は「確信犯」も誤用してましたね。
自然界には自分が「強い」「大きい」「危険」に見えるように擬態している生物が多々存在していますが、
唐沢の誤用は(P&Gも)「頭がいい」に見せる為の擬態ですね。完全に失敗していますけど。

kensyouhankensyouhan 2010/05/16 22:32 コメントありがとうございます。

自分にとって「頭がいい」というのは「難しい話をわかりやすく伝えること」なので、唐沢俊一とはわかりあえないんだろうなあ。ただ、「頭がいい」と思われたかったら唐沢のやりかたは有効なんでしょうけど。

やまだやまだ 2010/06/13 00:35 演劇雑誌の「悲劇喜劇」の今月号が井上ひさし追悼特集になっています。
ご興味のある方は、どうぞ御覧になって下さい。
娘さんや、井上ひさしと仕事をした俳優、演出家の追悼文だけでなく、
今年五月に蜷川幸雄演出、藤原竜也主演でロンドン公演した「ムサシ」の現地での劇評も載っています。
唐沢がどう書こうと、井上ひさしは晩年までトップランナーであったことが判ります。