唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

岡田斗司夫検証blog5.

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karasawagasepakuri@yahoo


 前回の記事について、竹熊健太郎さんのご指摘を受けて訂正&追記しておいたので、念のためにチェックしておいてください。それから、「OLD PINKお見合いオフ会」に実際に参加された竹熊さんのコメントは必読。ひどい話もあったものだ。
 「オタクアミーゴス会議室」での唐沢俊一岡田斗司夫の問題行動については『唐沢俊一検証本VOL.4』でも取り上げているので、ぜひ読んでみてください。今まで2年以上検証してきたけど、唐沢俊一に対して「この人に文章を書く資格はない」と思ったのは初めてだった。「OLD PINK」氏にしろ伊藤剛さんにしろさんざんパワハラしてきたわけですね。「オタキングex」は大丈夫だろうか。話はそれるが、今回の『まんが極道』に対する伊藤さん竹熊さんのツイートを読んで、いよいよただならぬことが起こっていると実感。まだ2011年は始まったばかりなのにいろいろありすぎ。


 それにしても、「OLD PINKお見合いオフ会事件」について岡田斗司夫の責任が最も大きいことは間違いない。唐沢の罵倒もアレだけど、岡田斗司夫は自分のスタッフだった「OLD PINK」氏を大勢の前で笑いものにしたわけだから、岡田の方が明らかに問題だ。…というわけで、今回も岡田の話題を取り上げる。


 今回取り上げるのは朝日新聞』1998年1月9日朝刊に掲載されたシリーズ企画『現代奇人伝』第8回「岡田斗司夫 オタクはもう飽きた」という記事である(担当は井原圭子記者)。

 大講堂を埋め尽くす女子学生を前に、岡田斗司夫(三九)はトランプのキングのような身体を揺すりながら、ぺらぺらといつもの調子でしゃべっていた。
「他人には言えない趣味なのに、語りたがるのがオタクです。『ワインおたく』とは言いませんよね」
 昨年暮れ、東京都内の短大で講演した岡田は、満足げにみえた。「オタク黎明(れいめい)期」なんてタイトルで、若い女性が喜んで聴いてくれるなんて、三年前にだれが想像できただろう?

 ためしに「ワインおたく」でググってみたら約649000件ヒットした。普通に使われている言い回しのようだ。『朝日新聞』でも使われている。
 ただ、岡田が講演を行った1997年当時には「ワインおたく」という風に言わなかった可能性もあるものの、それにしても岡田の「オタク」の定義は妙である。

(1)他人には言えない趣味を持っている
(2)にもかかわらず自らの趣味について他人に語りたがる

 …この定義は一般的なのかなあ。おそらく岡田は思いつきでしゃべっているのだろうから、マトモに考えない方がいいのかもしれないが。…どうも岡田も「うそつきくん」っぽい。「テキトーに聞いているぶんには」いい人。


 この後、岡田の経歴が簡単に紹介されているが、後々さまざまなメディアで公表されている岡田の経歴を比較して調べるつもりなのでここでは省略。

 その後、会社を離れ、「オタク文化評論家」として発言を始めた。
 オウムなど、奇怪な事件のたびに後ろ指さされるオタクを「僕も同じ」と弁護し、「進化した目の持ち主」と持ち上げた。

 岡田斗司夫オウム事件に衝撃を受けたらしく、オウムについてたびたび言及しているようだ。まあ、「OLD PINKお見合いオフ事件」を見る限り、「オタクアミーゴス会議室」にはオウム的な部分が確かにあるんだろうけど。ちなみに、この『現代奇人伝』という記事を大塚英志が厳しく批判している。

たまたま今日付の朝日新聞に岡田の記事がでていた。それによると岡田は<オウムなど、奇怪な事件のたびに後ろ指さされるオタクを「僕も同じ」と弁護し>てきたのだという。
 岡田が宮崎(勤)やオウムや神戸の事件で<おたく>を擁護することに身体を張ったとはぼくは不勉強で全く気がつかなかった。神戸の事件で何かTVでコメントしているのを見た記憶があるが、それは<おたく>の「弁護」には聞こえなかった。
 例えばオウムの時は、<おたく>を背負おうとしたのは宅八郎ではなかったか。彼らが何者であるかをめぐる言葉を紡ごうとしたのは宮台や森岡ではなかったか。業界関係者でその責任を背負って発言したのは「ガンダム」の富野氏だけではなかったか。 あるいはどこかで何かを岡田は語ったかもしれないが、岡田の発言でこれらの事件における論調に変化が生じたとぼくには思えない。

 文中の「森岡」は森岡正博のこと。
 というか、オウム事件に関連してオタクが批判されていたという記憶が自分にはない。何人かの評論家がオウム真理教にオタク的な部分を見て論考を展開させていたことはあったけれど。たとえば、竹熊さんの『私とハルマゲドン』がそうだし、浅羽通明切通理作さんなどもそうだ(『宝島30』あたりでよくみた)。岡田は彼らとは違って、オウムを自分の中の問題としてとらえるよりも、オウムを手がかりとして社会を分析する傾向が強い(一例として「ジ・オウム」掲載の文章を挙げておく)。岡田がどのような見方をとろうと自由だが、岡田の主張がオタクの擁護になっていたかというと疑わしいところで、大塚の批判にも一理あるものと認めざるを得ない。

 オタクの武器はビデオだ。アニメは工程が細分化され、同じ作品でもアニメーターごとに登場人物の顔立ちや動作が微妙に違う。オタクはそれを見分け、鑑賞できるのだと岡田はいう。

 このエピソードが『オタク学入門』の一番最初にあることはよく知られているはずだ。…しかし、この「進化した目の持ち主」理論をどうやってオタクの弁護に利用できるのか。まるで見当がつかないので困ってしまう。オタクである俺ですら「…だから何?」としか思えないので(自分もそれなりに作画や演出のクセはわかるけれど)、このエピソードが非オタクのみなさんにどこまでアピールできるのかかなり不安になる。そもそもアニメオタクを「オタク一般」として語るのがおかしいのだけど。

欧米の学生たちが日本アニメに熱狂し、セーラー服を着て登場人物のまねをする姿を紹介。「アニメは浮世絵同様、日本が世界に誇れる文化」と大見え(原文ママ)を切ったのである。
 東大教養学部で九六年に開講した「オタク文化論ゼミ」は、立ち見続出の「伝説のゼミ」となり、一気に若手言論人に躍り出る。

 日本の伝統文化とオタク文化を関係づける論法は、オタクのステータスを上げる意味では「進化した目の持ち主」理論よりずっと有効なのかもしれないが、一歩間違えばトンデモになってしまうので十分に検証をしたうえでやったほうがいい。唐沢俊一もこの論法をやっているけれど(2009年12月13日の記事を参照)、いかにも危なっかしい。オタクを弁護するためだからといって間違った話をしてもいいわけじゃないのは当然の話だ。
 なお、東大の「オタク文化論ゼミ」には唐沢もゲストとして参加しているが、こんな講義をしているので「何をやっているのか…」と呆れてしまう。

「東大講師」の肩書に、それまで岡田をキワモノ視していた人々も近寄ってきた。
国土庁「キャラクタービジネス研究会」、通産省デジタルアニメーション研究会」、静岡県「コンベンションアーツセンター構想」……。岡田が今年度、官僚たちの依頼で委員を務めたり助言したりしているプロジェクトである。
 低迷する日本経済にとって、アニメやゲームが数少ない勢いのある産業であることも追い風だった。オジサン世代には不可解な業界事情を語らせたら、「製作現場を知り、経営者の経験もあり、アカデミズムにも身を置く岡田先生が最適任」と、彼を推薦したシンクタンク研究員はいう。

 
 岡田は「キャラクタービジネス研究会」で作成された資料を『と学会年鑑2001』(太田出版)でネタにしている(「イジューインホリック」を参照)。…「トンデモ」にしてどうする。静岡県コンベンションアーツセンター(通称“グランシップ”)ではオタク系のイベントも開かれているから、もしかすると岡田の提言が役に立っているのかもしれない。

 すっかりオタクの権威となった岡田だが、最近はそんな流れに距離を置き始めている。東大のゼミも昨秋で辞め、下町を歩いて昔懐かしいおもちゃ集めに精を出す毎日。そして意外なことをいう。
「オタクはもう飽きた」
 これからの時代、人々はカネよりも「自分の気持ち」優先で動く。さまざまなメディアを通じて人々の「気持ち」にふさわしい情報やイメージを提供できる力こそ重要になる、が持論だ。岡田はそれを「洗脳力」と呼ぶ。
 これまでの「人類オタク化計画」とも呼べる活動はすべて、自らの「洗脳力」を試す実験だったという。
 オタクがかっこいいなんて、実は当の本人も思っちゃいなかった。だが、世間のオタク化は予想以上に進んだ。
 アニメ映画「もののけ姫」「新世紀エヴァンゲリオン」の大ヒット、東大生や官僚まで堂々とオタク宣言し、気がつけば論壇は「オタク評論家」であふれかえっているではないか。
 繊細で気まぐれな王様は、「オタク」を超える洗脳力を、ひそかに練り始めたところだ。

 大塚英志はこのくだりにも怒っている。

だが、その岡田は先の記事によれば自らの「洗脳力」によって「世間のオタク化」を進める「実験」をしていたのだという。それによると世間の「オタク化」が進み、「エヴァ」がヒットし、<論壇が「オタク評論家」であふれかえって>いるのもどうやら、岡田の「実験」の成果らしい。
 記事にする朝日も朝日であるが、庵野も岡田の「洗脳力」のおかげで「エヴァ」がヒットしたと言われちゃどうすればいいんだ。論壇の「オタク評論家」は例えばぼくのことなんだろうけど、困ったことにぼくはもう10年近く、論壇誌と呼ばれる場所で仕事をしているのだが、これも岡田の「洗脳力」のおかげとは知らなかった。
 普通、こういうのは妄想というが、きっと「洗脳力」に庵野もぼくも操られてしまったようだ。恐しいことである。

 確かに、岡田斗司夫がどうこうと言うより、記事の持ち上げ方も妙な感じがする。余談だが、この記事を担当した井原記者は現在『AERA』の副編集長をしているらしい。
 それにしても、自分がこの記事を読んでビックリしたのは、岡田斗司夫1998年の時点で既に「オタクはもう飽きた」などと言っていたことだ。唐沢とのオタク対談でも「オタクを引退する」「最近の流行にはついていけない」とかずっと言ってたしなあ。さっさと別の分野に進出して「洗脳力」を発揮すればよかったのに。もはや若いオタクに影響力は無いし、『週刊ダイヤモンド』の脳内秋葉原などはあまりにもズレていて唖然とさせられた。この13年で一体誰を洗脳できたのだろうか。
 …とは言うものの、岡田を気の毒に思わないでもない。おそらく岡田もオタク以外の分野に進出したかったはずなのだが、それがかなわなかったのだと思う。『フロン』のまえがきにある日本の知識人批判にもそれはうかがえるし、他にもそういった話を耳にしている。ついでに福田和也と坪内祐三の冷淡さも思い出す。
 他のジャンルへの進出を図るもののいろいろあって元のオタク業界に戻ってしまうパターン唐沢俊一とも共通しているようにも見える。ただ、岡田と唐沢が違うのは、唐沢には『トリビアの泉』というスマッシュヒットがあったものの、岡田にはそれがなく、この10年ずっと貯金を切り崩していってるように見えることだ。『オタクはすでに死んでいる』『遺言』はわかりやすい切り崩しだし、『いつまでもデブと思うなよ』では文字通りおのれの肉体を切り崩したわけだ。肥満を貯金と同一視できるかどうかは微妙なところだが。まあ、自分は岡田の仕事をすべて把握しているわけではないので、どこかでいい仕事をしているかもしれないし、唐沢の場合はそのスマッシュヒットがかえって仇になった可能性もある、とフォローともつかないことを言ってみる。
 この後、ネタが残っているのかどうか心配になるが、おそらく「オタキングex」が成功するのではないだろうか。現実的なアイディアとしては自己啓発系の本を出し続けることかなあ。それ系のネタはいかにも好きそうだし。


 ともあれ、今年の後半に『オタクはすでに死んでいる』の検証をやるつもりなので、じわじわ準備しておくことにしよう。…念のために書いておくと、岡田斗司夫を本格的に検証するつもりはありません。今のところは。

ぼくたちの洗脳社会

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オタク学入門 (新潮文庫 (お-71-1))

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東大オタク学講座 (講談社文庫 お 103-1)

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「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)

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私とハルマゲドン (ちくま文庫)

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思想家志願

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お前がセカイを殺したいなら

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宗教なき時代を生きるために

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と学会年鑑〈2001〉

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ジ・オウム―サブカルチャーとオウム真理教

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神の雫(1) (モーニング KC)

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