唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

「せめて、オタクらしく」補論・その1

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●本日、下北沢の「楽園」で「唐沢俊一アワー ジャパニーズ・バウハウス」が開催されます。唐沢俊一公式サイト前日になってから宣伝をしているが、札幌の悲劇に学べなかったのだろうか。「と学会」の公式twitterでも当日になってからお知らせしている。ハッシーも客入りの少なさを嘆いているので、私は行かないが盛り上がってほしいものだと思う。



唐沢俊一による梶田達二の「追討」より。

現在、怪獣やヒーローを神聖視するマニアが多いが、マニアたち
が原典をあまりに不可侵性の高みに置くと、その世界は萎縮してしまう。
オリジナルのドラマから得たインパクトを脳内でイメージ増幅させ、本編
以上に迫力のあるものにしていたからこそ、昭和の怪獣ブームはさまざまな
局面を得られ、発展していけたのだと思う。

11月8日、胃ガンで死去。75歳。精神的に物凄く豊かであった昭和の
怪獣ファンとしての子供時代を過ごし得たお礼を、心から申上げたい。
ご冥福を。


 日付が未来になっているのはともかく、「昭和の怪獣ファン」って一体どの層を指しているんだろ。唐沢俊一より20歳近く年下の自分も「昭和」から怪獣ファンだったんだけどね。「イメージ増幅」云々は岡田斗司夫の「大統領のヘルメット」みたいだ。



唐沢俊一検証本VOL.4』「せめて、オタクらしく」と題してオタクアミーゴス会議室」での『新世紀エヴァンゲリオン』関連の騒動について簡単にまとめておいた。いまだに伊藤剛さんに関するデマを信じている人も少なくないようなので、当時の状況に関心のある人はぜひ一度手にとってもらいたい。
 しかしながら、本の中では最大限わかりやすくまとめようとしたため、紹介できなかった事柄もまだ残っている。たとえば、「OLD PINKお見合いオフ事件」もそうだ。そこでいくつか補論を付け加えておくことにする。


 「オタアミ会議室」1997年9月12日で、唐沢俊一「いじめとオタク(及びオタク的価値観論)」と題した書き込みをしている。この中で唐沢は「オタク」を個人主義が究極まで行き渡った境地」と定義したうえで、次のように書いている。

 つまり、いじめ問題に戻って言えば、「クラス全体がオタクになっちゃえば、いじめなんかおこらない」ってこと(かなり乱暴なモノイイだけど)なんですね。いじめとは、排除の論理によって現出するものだからです。個々の価値感(原文ママ)を尊重しながら、自らのオタク的地位を確認するためには相対的視点が絶対的に必要で、それには価値感(原文ママ)の異なる者をどれだけ友人として自分の交際範囲にもっているか、が大事になる。いじめっ子=異なる価値感(原文ママ)の持主を排除しようとする者、は自分のニッチを自分の中で高められないわけです。
 そして大事なのは、その価値観が完全に個人のオリジナルであること (全体的でなく、部分的でかまわないけど)。伊藤くんがこの会議室にいられなくなったそもそもの原因は、ゴダールであるとか芹沢俊介であるとかの借り物的価値観を絶対的なものとして意見を語ろうとしていたことにあると思うんですね。これからのオタク的価値観の時代、それは最も否定されるべき思考形態なわけです。


 なお、このくだりの前に唐沢俊一は伊藤さんについて、自己愛が強すぎるために『エヴァ』という外部の価値によりかかっていた、と書いている。


 この文章について考える前に、『検証本』を御覧になっていない方のために当時の状況についてひとつ説明しておいた方がいいだろう。
 伊藤さんが当時の「オタアミ会議室」で目立った存在だったのは確かである。「オタク」をテーマにした会議室で『エヴァ』についてフリッパーズ・ギターなどを持ち出して考察していたのだから当然と言えば当然なのかもしれない。しかし、会議室では伊藤さんの文章を評価する人も少なくなかったことは忘れてはならないことであって、少なくとも「オタアミ会議室」の投稿をもって伊藤さんを「サイコさん」扱いするのは当を失していると言わざるを得ない。また、「オタアミ会議室」で唐沢俊一と伊藤さんはお互いの「オタク」観について何回かやりとりを交わしてもいて、会議室のログを追いかけて読んでいると、唐沢が伊藤さんをいきなり「サイコさん」扱いしだすので、とても奇妙に見える。


 では、話を唐沢の文章に戻す。
 「クラス全体がオタクになっちゃえば、いじめなんかおこらない」とはすいぶん思い切った話だが、その後唐沢は考え方を変えたようで、『社会派くんがゆく! 維新編』(アスペクト)では「いじめは本能だ!」というタイトルの文章を書いている。P.270より。

 いじめはなくならない。なぜなら、ある意味、それは人間が社会的に生きていく上で必要なものであるからだ。「三人旅は一人乞食」ということわざがあることでもわかるように、人間は誰かと仲良くなれば、その反動で誰かを仲間はずれにし、いじめたくなるものだ。いや、誰かを共通のいじめ相手とすることで、同じいじめ者同士はより結束を強くし、友情を確認しあえる。


 自白しよった…。伊藤さんを蔑称で呼んだ心理が見えるかのようだ。なお、『社会派くんがゆく! 乱世編』(アスペクト)で唐沢は「受験こそ最大の、国が子供の自由な時間を奪う、国家規模の“いじめ”」(P.388)と言っているが、今回読み返していて「こんなレベルの低いことを言っていたのか?」と驚いてしまった。前に読んでいた時には目に入らなかったのかなあ。我ながら見る目がない。


 「オタアミ会議室」の唐沢の文章では、「オタク的価値観」が確立することで「排除の論理」が発動しなくなる、と書いているのに、その直後に「オタアミ会議室」で伊藤さんに対して「排除の論理」が発動したことを書いているので、何が何やらわからなくなってしまう。「オタアミ会議室」の価値観って「オタク的価値観」じゃないの?
 なお、伊藤さんからこの件に関してお話を伺ったことがあるが、伊藤さんによると「オタアミ会議室」の投稿にくだらないものがあって、それで嫌気がさして離れた、とのことだったので(唐沢俊一とは関係のない投稿とのこと。為念)、「いられなくなった」のではなくて伊藤さんが自分から距離をとったようである。 
 あと、「その価値観が完全に個人のオリジナルである」云々については、「オタアミ会議室」で伊藤さんは『エヴァ』について批判的なことも書いていて、いわゆる「信者」にはあたらないように思われる。また、「全体的でなく、部分的でかまわないけど」などと言い出したら、それなら誰の中にだって何かしらオリジナルな考えはあるだろうさ、という話にしかならず、伊藤さんを否定する根拠にはなり得ない。
 「オタク」を「個人主義が究極まで行き渡った境地」とする定義も、岡田斗司夫や「と学会」が唐沢に関するトラブルをスルーしているのを見ていると到底信じられない(「と学会」のメンバーすべてがオタクではないとしても)。「個人主義」は「自分勝手」や「自分の都合の悪いことに眼をつぶる」とは違うはずだ。


 いじめというのは子供時代に限った話ではなく、大人になってからも存在する。「オタアミ会議室」で唐沢俊一岡田斗司夫が率先して伊藤さんを蔑称で呼んでいたこともいじめの範疇に含まれることだろう。伊藤さんが唐沢・岡田らを訴えた後、「オタアミ会議室」や「バトルウォッチャー・パティオ」では伊藤さんを責める投稿がいくつかあったのだが、思うに彼らは伊藤さんをからかってもかまわないとする「オタアミ会議室」の空気に麻痺していたのではないか。最初はおふざけだったのがだんだんエスカレートしていく、というのはいじめにはありがちである。
 伊藤さんの件だけでなく前出の「OLD PINKお見合いオフ事件」が発生した点からも、「オタアミ会議室」にはいじめを許す土壌があったと言わざるを得ないが、その責任は会議室の「議長」である唐沢俊一岡田斗司夫にあったと見るのが妥当だろう(もう一人の議長である眠田直は後に伊藤さんのブログで誹謗中傷を行った)。ニフティの会議室のノリをそのまま商業出版物にまで持ち込んでしまった唐沢、それをスルーしてしまった岡田もまた「あいつになら何を言ってもいいんだ」と麻痺していたのだろう。


 「いじめとオタク(及びオタク的価値観論)」は次のように締めくくられている。

 意識革命は、常にそれまでマイナスのイメージしか付与されていなかった概念に正統的位置が与えられた時に起こる。オタクという、未だ否定的ニュアンスで使用されている言葉のイメージが社会の中で逆転したときが、オタクの逆襲の秋(とき)でしょうね。


 書いている本人も何を書いているのかわかっているのかどうか。「クラス全体がオタクになっちゃえば、いじめなんかおこらない」にしてもそうだが、大風呂敷を広げに広げた挙句たためなくなって、「いじめは本能だ!」と考えを変えたのだろう。『社会派くんがゆく!』の論調は「鬼畜」なだけではなく実は「現状追認」の色合いも濃いが、「いじめは本能だ!」はその例のひとつである。唐沢は「いじめがあること自体は認めて、でもそれが陰惨な方向に走らないように、常にチェックを怠らない」という「対処法」を示しているが(『乱世編』P.387)、はたしてこれで対処になり得るのか。「わが子がいじめに遭ったらどうするか」とか考えないんだろうなあ。


 「オタアミ会議室」の過去ログを一通り読んでも、唐沢俊一が伊藤さんを執拗に攻撃した理由は結局のところよくわからない。伊藤さんご自身にもそれはわからないようで、唐沢が伊藤さんの発言を捏造して攻撃してくることに困惑させられたようである。商業出版物でまで捏造してくるんだもんなあ(5月16日の記事を参照)。何が彼をそうさせたのか。直接聞くしかないのかね、やっぱり…。
 ひとつ興味深いのは、唐沢俊一による伊藤さんへの批判がブーメランになる確率が高いことで、「自己愛が強すぎる」というのも唐沢自身の自己愛の強さを示しているのだろう。ただ、そうなると、唐沢が「いじめとオタク(及びオタク的価値観論)」の中で伊藤さんについて「彼も昔は徹底したいじめられっ子だったそうです」と書いているのももしかすると…、と思ってしまう。


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社会派くんがゆく! 維新編

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