唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

オタク学への挑戦。

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 唐沢俊一鶴岡法斎『ブンカザツロン』エンターブレイン)第3章の検証に戻る。この第3章において唐沢は「オタク」という存在について考察することがいかに困難であるかを何度となく語っている。P.131より。

唐沢  (前略)オタクを分析しよう、本質みたいなものを割り出そうとしている者にとって、今の状況というのはよろしくないわけです。岡田斗司夫などを中心にした、非常に特殊な性癖を持った集団であれば、これをまとめて異人種として分析できるわけですよね。
(中略)
オタクはみるみるうちに広がりすぎて、その特殊性がほとんどなくなってしまっている。斎藤(引用者註 環)さんなんかは仕方ないから、エリートオタクと一般オタクという風に分類しようとしているようだけど、オタク的に濃いやつほど成功しているとは限らないから、これは無意味ですね。つまりは、オタク的なものというのは私が言うように、「内在的なものじゃない。あくまで二〇世紀末の世界的な情報量増大、映像保存普及技術の進化という状況の中で生み出されたもの」ということなんですよ。ディープな、病的なオタクというのは、ただその情報収集に凝りすぎて人格を崩壊させてしまったという、昔からコレクターにありがちな例に過ぎません。そういう危険性を十分に持ちながら、また危険があるからこそスリリングなものなんです、オタク的生き方というのはね。(後略)


 この発言からすると、オタクがまるでニュータイプか何かのように思えてくる。「今までの人類とは全く異なる新たな人類が誕生した!」みたいな。加えて「優れた能力を持ちながら一歩間違えば人格が崩壊してしまう」だなんて邪気眼っぽくてカッコいい。俺は一応オタクのはずなんだけど、自分がそんな凄い存在だったとは全くもって知らなかった。ただ、唐沢はこの本の別の箇所では、高橋鐡を「オタクの元祖」と呼んだり(P.166)、司馬遼太郎の小説を「オタク小説」と呼んでいるのだが(P.210)、じゃあ、オタクって別に「二〇世紀末」に初めて生まれたものでもないんじゃね?と思えてしまう。毎度のことながら「オタク」の定義が実にいい加減。


 P.161より。

唐沢  (前略)だから断片とかね、ほんのちょっとした挿話、思いつき、知識のかけら、そういうものを寄せ集めて人格っていうものをとにかく埋めていこうっていう形。僕はね、オタク的人格をも含めた二十世紀末の大衆文化というものは、そういう形でしか全体像を把握できないと思うの。なにせ、社会的基盤の推移からエンタテインメント産業の発達史、商品市場の拡大、ラジオからパソコンまでの情報ツール開発、マンガ技術の変遷、家族構成の変化、コミュニケーション技術の進歩と退歩、ありとあらゆる要素がこの中につまっている。とても、一方向からだけの視点じゃこれを分析などできませんよ。


 まことに気宇壮大な話である。この発言の後で南方熊楠のエピソードが語られているので、この時点で唐沢俊一の中では民俗学的な手法に拠ってオタクを分析しようという意思があったのかもしれない。まあ、「一行知識」を収集していた人らしい発想ではあるが、ここで挙げられているテーマのひとつでも面倒くさがらずにキッチリ分析していてくれれば、他の人々による論考の助けになっていただろうに、と残念な気持ちもある。唐沢は他の箇所でも『新世紀エヴァンゲリオン』についてアカデミックに語りたがる人は多いのにみんなペンペンを切り捨てて語っているのはおかしい(P.134)と語っているが、それなら自分でペンペンについて論じてみればよかったのに、と思う。大きいことを言うよりも地道な作業の積み重ねが大事、という当たり前のことをあらためて感じる。


 P.166より。

唐沢  (前略)で、スッキリまとまる、綺麗にまとまる、でも、論文に書けるっていうことがすでに時代遅れなんだよっていうこともわかってほしい。現代の“知”というものに対する在野からの挑戦ってのは、そういういところ(原文ママ)からきてるわけだからね。セックスがそうでしょ。セックス学とかていう形(原文ママ)のものって綺麗にまとまるってことは絶対無いでしょ。



鶴岡  無いです。


 「現代の“知”というものに対する在野からの挑戦」というフレーズがカッコよすぎるが、論文に書けるようなテーマは時代遅れのもの、と言い切っているのが凄い。唐沢さんは青学の卒論で何を書いたのでしょうか。
 しかしまあ、論文を書かない(書けない?)ことを正当化するためにえらく理屈をこねるものだなあ、と思わざるを得ない。誰も客観的に見て完璧な論考をしろなどとは言っていないのであって、唐沢俊一なりの見方を呈示すれば済むだけの話なのに。現にこれまでオタク・サブカルチャー関連の論者の多くは彼らなりの見方を書籍にまとめて呈示して、その結果評価を得てきたわけである。岡田斗司夫だって『オタク学入門』を書いたわけだしね。
 唐沢俊一がオタクに影響力のある人間と見られていたにもかかわらず、実はオタクについて深く掘り下げて論じたことがなく、オタク関連の論考を本にまとめていない、という状況は以前から気になっていたが、上の発言を見る限りでは本人としては書きたくなかったのかも、と思う。まあ、本にまとめておけば後々参照されることがあったかもしれないので、その点は惜しいことをしたのではないだろうか。『オタク学入門』や唐沢がこっぴどく批判した『戦闘美少女の精神分析』や『動物化するポストモダン』や『テヅカ・イズ・デッド』は将来も読まれるはずだが、唐沢のオタク話が将来残るかというと正直疑問である。将来どころか今現在どうなっているかを考える必要があるかもしれない。…いや、だって、オタクについてあれこれぶち上げていた人の「脳内秋葉原」があんな有様だなんて悲しすぎるもの。


 …と、ここまではマジメに考えてきたが、実は唐沢が本音をぶっちゃけている箇所があったりする。P.165より。

唐沢   哲学や純粋芸術、ファインアートをやっている人間の方が上だっていう形でしか見ることのできない連中の中に入れてくださいとか、それを学問の範疇として研究してくださいってこっちの方から頭下げる必要はないのよ。


鶴岡  無いです。嫌いじゃないけど。


 …ああ、本当にアカデミズムに弱いんだなあ、としか。アカデミシャンがぐうの音も出ないような凄い本を書けばいいじゃないですか、と思わず激励したくなる。唐沢俊一は実は権威主義者なのか?と考えると意外な気もするが、反児童ポルノ規制や反原発への冷笑的な態度はそれこそ権威主義的だ、とも思える。「鬼畜」「裏モノ」の人が権威主義、というのには複雑な思いを禁じ得ないところだが。



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