道化が見た世界

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インディアン・インパクト

私は小学5年生から中学1年生になるまでの二年間、インドのカルカッタという場所に滞在していたのだが、そこでの体験・環境が現今の私の精神成長過程・人格形成に及ぼした影響は多大である。マイナスの方向へ。


私には双子の姉、年後の兄がいる。そして、一般の兄弟と別つ、私の兄弟の一つの特徴は「ディスり」にある。確かに普通の家庭でもある程度のディスりはある。しかし、私の兄弟のそれは常軌を逸しており、それはまさに「一挙手一投足の全てが監視されている状態」であり、隙を見せれば僅かな瑕疵でもそこに付け込み、可能な限り恥部をえぐり出し白日の下に晒して嘲笑の的にするという体であった。


そしてその的になるのは概して私であった。腕力では兄に勝てず、口では姉に勝てなかった。私は肉体的/精神的弱者であり、そこには常に力の優劣が、感覚的実感として、生の世界として厳然と存在していた。


しかし、私には救いがあった。小学校の環境が私を満たしてくれた。私を慕ってくれる友達や、私に好意を抱いてくれる異性の存在。私の自尊は、兄弟間の社会を「小社会」とするならば、小学校を基にする「大社会」で満たされていたのである。故に、たとえ「小社会」で虐げられたとしても、私を承認してくれる「大社会」に逃げ込めば、私の精神は満たされていたのであった。


しかし、その救いも、渡印することによって霧消した。私にとっての「渡印」とは、唯一の救いであった「大社会」の消失を意味していたのである。インドで「大社会」を構築することは、果たして可能であっただろうか。そこには言語の壁をはじめとする多様な障壁があり、尚且つそれを途中参加の形で一から構築せねばならないとなれば、至難の業であったであろう。


「一挙手一投足の全てが監視されている状態」で、何も知らない下手くそな英語をしゃべり、果敢にコミュニケーションを図ることは、いかなる困難を伴ったであろう。結局、私達三兄弟は、二年間もの間、誰一人として、英語をしゃべらなかった。


特筆すべきは、「仲間」という制度である。1:2の構造を作り、仲間はずれになった者を虐げる(ディスる)というものである。数が3人の場合、それぞれが均等にそれぞれをディスるということにはなりにくい。そこには必ず多寡が生まれ、力の関係が生まれる。私はこの制度を、病的なディスり環境が生み出した極致であると考えている。


兄が1:2の1になることが無かったのは、彼が腕力に優越していたからであろう。私は彼に口で勝っていたであろうが、腕力において劣っているので、迂闊にディスることはできなかった。姉も同様である。つまり、1になるのは私か姉であり、兄は常に2の中に含まれ、その権力を濫用した。故に私と姉は、兄に媚びた。力に追従した。


その密閉された空間の圧政から抜け出すには、「大社会」を構築する他無かったが、先程にも述べた様に、それは至難の業であった。一般の人間は「ただ適当に英語しゃべればいいじゃん」と思うかもしれないが、私達兄弟の中で培われた陰湿な監視の視線はそれぞれの内に内面化され、それぞれの重圧になった。日本で姿を潜ませていた「小社会」が、私の「全社会」へと変容したのであった。


日本に帰国した私は既に、密閉された「小社会」の害悪をふんだんに吸いこんでいた。二年の歳月は、私が「大社会」で形成した身体性を消失するのには充分過ぎるほどの時間であった。2年間の「人間的ブランク」に起因する、同級生に対する劣等感は計り知れなかった。私は自分自身に「サブキャラ」のレッテルを貼っていたのである。


中学高校時代の私の生活は、その「サブキャラ・レッテル」を剥がす為の闘争の歴史であるとも言えるのだ。仮に、私がインドへ行かず、皆と同じ様に日々を過ごしていたのであれば、その様な鬱屈した劣等感も抱えずに済んだであろう。溌剌とした、「青春」と形容するに相応しい学生生活を過ごせていたかもしれない。


そうではない人生を私に歩ませた忌むべき遠因。私はそれを「インディアン・インパクト」と呼ぶのである。