私の履歴書 第十三回 ビジネスに目覚め独立を決意

赴任して2年が過ぎたころから仕事にも脂がのってきた。
3年目から帰任するまでの3年間は大いに会社に貢献したように思う。


自身の経験から海外赴任を振り返ると初めの一年ぐらいは新しい環境に馴染むまで時間がかかり二年目あたりからやっと自分の生活パターンができ仕事にも身が入る。
3年目になると会社全体の業務が見渡せるようになり自分の役割も自覚しスタッフや取引先とのつながりも強くなるので目に見える形で仕事の実績が出せるようになってきた。

当時は3年が一般的な海外赴任期間であったが私は自分の経験から5年という赴任期間が適切だと思う。

先にも述べたが1980年代は円高香港ドル安が急激に進行した時代だった。

統計を見ると80年から88年までの8年間に香港ドルは46円前後から16円台へと三分の一近くまで下落している。

82年の香港返還決定後に将来の失望感から香港ドルは大量に売り浴びせられ香港政庁は香港ドルの防衛と安定化を図るために83年10月にドルペッグ制(1USD=7.8HKD)を採用した。

80年代はアメリカが膨大な経常赤字(財政赤字貿易赤字双子の赤字)を抱え、日本は輸出が急伸、日本の一人勝ち状態だった。

このためドル高是正を狙った85年のプラザ合意後、急激な円高USドル安が進行し88年までの3年間でUSドルは235円から130円付近まで急落、ペッグ制を取った香港ドルは対円で大幅に下落した。

私が赴任した83年ころからは円高の連続で香港の物価がとても安く感じられた。
日本にいては感じられないが海外にいると強くなった円を身近に感じた。
このころ日本ではバブルが始まりアメリカの不動産買いや海外旅行ブームが起こった。

一方、一気に進んだ円高によって日本の製造業は競争力を失いコストの安い香港、台湾へと製造のアジアシフトが急激に進み始めた。
それにともない香港、台湾などに赴任する日本人が増えた。

時計業界では国内で製造していた時計ケースなどの時計部品の海外移転が加速、香港を筆頭に台湾、タイなどへのシフトが進んだ。

香港工場の位置づけはより重要となり私の任務もますます責任が重くなってきた。


当時香港PELでは主に中近東やアジア市場向けの70系自動巻きモデルのケース調達が主体だったが円高の進行とともに徐々に国内モデルもシフトが始まり香港でのケース調達数が一気に増えてきた。

80年代前半、時計バンドの製造は一足先に中国深圳への生産シフトが始まっていたが時計ケースはまだかなりの数のケースメーカーが香港に残っていた。

ケースの生産キャパの拡大が必要となり私はそれまでのケースメーカーに加え香港での新たな調達ソースを探す動きを始めた。

当時のケースメーカーを分類すると大きく3種類に分けられた。

最もメーカー数の多かったドレス系BS(真鍮)ケース、まだ比較的少なかった防水機能系ステンレスケース、そして主にアメリカ低価格市場向けのZn(亜鉛)合金ケースの三種類のメーカー群があったが当時はそのどれもが必要で私は新規メーカー開拓のため香港スタッフと一緒にメーカー探しを始めた。

香港のケースメーカーには20年以上の歴史を持つ会社も少なくなかったが調べていくとピンからキリまで4段階程度のグレードに分けられピン(Aクラス)の方はすでに名の知られたスイスブランドのお手付き(傘下)になっているメーカーが意外に多いことも分かった。
我々は主にBクラスを中心に新しいメーカーを訪問した。

その動きが香港のケースメーカーの間で噂となりセイコーは既存メーカーの見直し選別を始めていると誤解もされたが結果的には既存メーカーの生産量を拡大する中で新規メーカーも導入した。


話は変わるが1985年頃だったか、香港に進出している日本の時計業界が組織する香港精密機械部会が企画した中国の西安、四川、重慶の三都市の視察旅行がありPELを代表して参加する機会を得た。

香港で働く時計産業関連会社の日本人総勢20名ほどの団体が当時まだ改革開放が動き出したばかりの中国各都市を見て回った。

改革開放が始まったといっても実態はまだ共産主義体制の下で人民公社なども残っていた時代だ。

まだ改革の掛け声ばかりが先行した頃で国有企業の工場では手持ち無沙汰にしているやる気のない従業員も多く目につき、動いていない新品のNCマシンなどが無造作に置いてあった。

まだ経済が活性化するずっと前のころで、街で見かける人々の生活は貧しさが目に付き、服装も粗末で、人民服姿も見かけられた。

機会の平等でなく、ある意味”みんなで貧乏しよう“という結果の平等を求めた共産主義社会の実態を垣間見た気がした。

2018年の今、鄧小平が始めた改革開放政策がこれほど進展しGDPが日本を抜き世界で二番目になるとは想像もできない一昔前の共産主義中国の世界がそこにあった。

あれから30年以上が過ぎ中国は大きく変貌した。

鄧小平が今の中国を見たら何というだろうか。
鄧小平自身も自らが始めた改革開放政策によってこれほど国が豊かになるとは想像もしなかったに違いない。


いつだったか赴任中にたまたま香港在住の日本人を対象にした日本領事館主催の初の写真コンテスがあった。
私は香港で撮影した自身のストックの中から10枚ほど自選し応募したところその中の一枚がトップの総領事賞に選ばれた。

何の用事だったか中国広州市から香港戻りの船中で一泊し、翌早朝香港の港に着いたところで朝日を逆光に香港島のビル群を船上から一望した写真でタイトルは”香港の夜明け”とした。
日本人クラブでの表彰式で当時の松浦総領事から直接賞状を頂いた。



赴任中にはPELとしては初めてとなる時計のOEM生産の立ち上げも担当した。

それまで香港PELの役割はSEIKOなど自社ブランドの生産のみだったが(SANYOブランドでの)時計OEM生産のプロジェクトがスタートし香港で対応することになった。

それまで時計のデザインはすべて日本で行われていたが香港でのデザイン作業を進めるために香港会社としては始めて時計デザイナー(新卒)を採用した。

この頃が香港でのOEMビジネスの草創期となり企画やデザインの芽を植えたことで後に香港会社でのOEMビジネスが大きく伸びることにつながる。

当時は景気も良く時計が良く売れたのでSANYOロゴの時計は短期間で相当数を生産、面白いように売り上げが伸びたのでこのOEMビジネスで大いに会社に貢献することができた。

この時のOEM業務の成功体験はのちに私がビジネスに目覚める一つのきっかけにもなった。


急激な円高進行で製造業の香港シフトが進むにつれて香港詣が増えたのもこのころだった。

本社からはもちろん関連メーカーの人たち、さらには時計以外の人も含めて香港の現地事情に詳しい赴任者から情報を得ようと多くの来訪を受けた。

当時の製造業に関わる人たちにとって“海外生産シフト”は死活にかかわる真剣なテーマだったので多くの人が香港を訪れるようになり赴任者は半ばアテンド業ではないかと思うぐらいに人と会う機会が増えた。

結果的にはそれが自分自身の勉強となり、多くの人と話しをするうちに人を観察する目が備わり、モノを見る視野が広がった。

人の違いが短時間で掴めるようになり30分も話すとその人の考えている事が大体分かるようになってきた。


香港PELは日本から近いせいもあって本社からの出張者が多かったが役員も定期的に来られることが多かった。

日本ではなかなか接することが出来ない役員でも香港ではミーティングや香港のアテンドなどで直接話をする機会も多くなる。

海外に出ると気持ちも解放されるのかなぜかざっくばらんになり本音も出てくる。

さすがに役員になる人は違うなと思う人もいれば、意外に世間が狭く見識に乏しいなと感じる人もいた。

こうした香港での数々の経験は私の視野を広め、伴い自分も変わっていった。

数年が過ぎた頃には一介の技術屋から商売感覚が根付きビジネスに目覚めて海外ビジネスに興味を持つようになってきた。

香港で生活するうちに香港の風に吹かれた影響もあるだろう。


香港には根っからの商売人気質の文化が息づいている。
日本に比べ多くの人が自分の小さな商売を持ち一生懸命に精を出している。

総じてお金に敏感で人々は金儲け話に余念がない。

香港には円卓を囲んで乾杯をするときに“賺多的”(ジャントーディ)という言葉がある。
“たくさん稼ごう“とお互いに元気づける意味で使われるが、俗に言われる大阪商人の“儲かりまっか“と相通じるものがある。



そんな香港のお金儲け第一主義的な文化に染まった事実も拭えないがこの気持ちの変化は実は邱さんの本による影響が大きい。

香港に赴任する前に邱さんのファンになり赴任中も新しい本が出るたびにずっと追っかけて読んでいた。

前にも書いたが邱さんは1950年半ばごろから作家活動に入り小説『香港』で直木賞受賞後はどちらかというと自分の体験をもとに身近なお金(経済学)の話題を中心にした多くの本を出しているが私自身は邱さんの本を読むことで生きる上での知恵を授かり、世の中を見る目がついてきたように思う。

大きな潮の流れを見てそれに乗ることが大事であること。

それに逆らってはたとえ倍の力で頑張っても成功は難しいこと。

世の中が動くときは変化でありそこに隙間ができてチャンスが生まれること。

これらの邱さんの教えは今も忘れていない。

80年代に深圳の経済特区が始まったころにすでに邱さんは「中国が世界の工場になる」と予言していた。

当時は円高によって世の中が大きく動き香港への生産シフトという大きな変化があったのでそこにビジネスチャンスが生まれた。

図らずも邱さんの教えで私はそこに気がついた。



ちなみに赴任前後の1980年代に読んだ邱さんのいくつかの本は以下のものだった。(出版年は順不同)

「金銭読本」
「成功の法則」
「変化こそチャンス」
「金銭処世学」
「香港の挑戦」
「私の金儲け自伝」
「奔放なる発想、時代を読む」
「人生後半のための経済設計」
「株の目、事業の目」
「世界で稼ぐ」
「野心家の時間割」
「変わる世の中変わらぬ鉄則」
など。

なかでも赴任中に読んだ「人生後半のための経済設計」(1986年10刷)が私の独立心に火をつけた。

この本の第三章に“40歳からの生き方考え方“と題した文章がある。

少し長くなるがとても示唆に富んだ内容なのでその一部を原文のまま紹介したい。
(1996年刊行の「生きざまの探究」にも同様の内容が書かれている)



『人生80年時代になると今の定年制度が人生の波長と合わなくなってきている。
(★ 橋本注;2018年現在では人生100年時代と言われている)

60歳の定年が65歳になろうとその先15年も20年も残っているからもう一度褌を締めなおして第二の人生を歩まなければならない。

60歳を過ぎて定年になってから頭の切り替えをし、新しい挑戦をするのはほとんど償却の終わった機械に違う作業をこなせというものである。
第二の人生も大事だと思うなら60歳で区切るのは明らかに不合理である。

その意味で80年の人生を60歳で区切るよりも1歳から40歳、41歳から80歳までと区切るほうがあらゆる点で都合が良い。

1歳から20歳までは成長期で、社会人としての経験を積むのは20歳からとしてその時点で自分の性格に合った仕事は何なのか分かろうと思うのは無理がある。

入社後いろいろな部署を回り対外的な経験を積んでどれが本当に自分の天職であるかを悟るのを20年がかりでやる。

残りの人生をかけてやる仕事を見定めるのが40歳というわけである。

その時点でそれまでと同じ仕事を選ぶか転職転業して新しい人生に挑戦するのもその人の幸いである。

どちらにしても60歳になってからでは遅すぎるので60歳になって会社に首を切られるより40歳で自分の首を切るべきである。

40歳なら過去20年の経験を活かし独立自営をすることもできるしそれだけの活力もある。
途中で一回や二回の挫折をしても立ち直る時間の余裕がある。

しかし十中八九の人が自分の首を切るようなことをまずやらない。
会社にそれを強要されるわけではないのでついそのままになる。

辞めても辞めなくとも一向に差し支えないが40歳の節目のところで20年後の自分に思いをいたしてここはどうしたらよいかを考える。』

そしてこうも書いている。

『学校を出て40歳までは西も東も分からない世間知らずがだんだん体験を積んで一人前になっていく過程。
しかし40歳を過ぎると体力も次第に衰え初め能力にも格差が目立ってくる。
40歳は人生の先が見えてくる時期で「人生の一つの曲がり角」である。

山登りに例えれば峠に差し掛かったところでそこでお金をもらいながら勉強する形の就職は40歳を一つの区切りにするのが適当ではないかと思う。

本人も今までの仕事が自分に向いた仕事なのか自覚し、自分の能力の限界について見極めのつく年齢でもある。
40歳前後が男の人生の一区切りで「40歳は脱サラのラストチャンス」

それまでに独立を考えたことのない人は会社勤めが性に合っていると思って定年までの道を突っ走るのが良い。

この年のころにいっぺん自分の将来の生き方について方針を定めておくかおかないかが熟年以降に大きく影響する。

死ぬまで現役でいられる(定年のない)仕事を見つける。
定年後に職から離れ、責任を逃れて年を取ったと意識すると人間は途端に老けてしまう。
平均寿命は延びているのに頭脳の方が退化してしまっては自らボケ人間になるようなものだ。

そうならないために定年後にやるべき仕事を見つけておくことが必要になる。
定年後に職を失うことを防ぐには小さくても自営業をやるしか方法はない。

ただ一定のスケールの事業規模を築こうと思えば定年になってからでは間に合わないので40歳前後に始めることである。

この年齢は人生経験を積んで知識もありまだ体力もあるので失敗の可能性が小さくちょうど良い年齢なのである。

自分の人生は自分で切り開いていく以外に道はない。
失敗を恐れずに体験する「冒険家の発想」を勧める。』



私は邱さんのこの“人生を40歳で区切る”考え方に強く同意し反応した。

自分の年齢、仕事の環境、やりたいこと、そしてその可能性、それらがすべて今の自分に一致している。


もともと一回きりの人生を一生サラリーマンだけで終わるのは何か物足りないなという気持ちがどこかにあったし、いつか自分の商売というものを小さくてもいいから一度はやって見たかった。

やりたいことをやらずに後悔するよりもやってみる事に生きがいを見つける。

赴任終了と同時に独立すれば人生前半をサラリーマン、そして後半をビジネス人生とするのも悪くないなと思った。

三年やってダメならまたサラリーマンに戻ればいい。
どんな会社に入っても自分なりに貢献できる自負はあった。

香港での独立を強く意識するようになり決心するまでにさほどの時間がかからなかった。

邱さん曰く、

『経済的発展をもたらした日本人の特質をサムライの精神を受け継ぐものとしそれが「個人の利益より集団の利益を優先する」日本社会の特質を作り出している。

香港はその逆で個の利益を優先する社会といってもよく、また世間もそれを認めていて力のあるものがどんどん伸びていく世界と言ってよい。』

私自身、香港に来て感じたことは

日本の社会が大企業という集団中心の社会になっているのに対して香港は小さな個人企業が集合した社会になっている。

財閥といえる大きな会社でも日本のようにメイン株主の比率が小さく社長と言ってもサラリーマンと変わらないような社長なのに対し、香港は個人(もしくはファミリー)で持っているケースが多く、そのため経営の決断が断然早い。

香港にも累進税制度はあるが所得税の最高が15%なので税率は低い。
レッセフェールと言われる自由放任主義政治で規制が少なく起業の魅力がある。

かつて香港ドリームと言われて久しいが香港は誰でもやる気のある者が自由に挑戦し、そしてその実を個人が受け取れる懐の深さもある。

たいしたことはできないが挑戦する魅力がある。

この決心は妻以外の誰にも伝えず自分の中に暖め、残りの赴任期間は仕事の手を抜かず全力で成果を出しながら一方で起業のための準備を進めることにした。

日本の通信教育を利用して経営実務や経理マーケティングなど経営に必要な勉強も始めた。
並行して香港で起業する際の信頼できるパートナーを探す動きも始めた。


ちょうど赴任後4年経ったこのころ仕事の実績も認められ主任から副主査へと(課長級への)昇格が認められた。
昭和63年(1988)、赴任して5年、任期を全うしていよいよ帰国の時期が来た。
お世話になった香港の人たちに挨拶を済ませ家族ともども帰国の途に就いた。

休暇を取り日本経由でハワイまで飛び家族で何泊か滞在した後に帰国した。

初めて訪れた常夏の島ハワイは美しく素晴らしい所だった。

真っ青な空とどこまでも澄んだ海、色鮮やかに咲く美しい花に囲まれて私は未来の挑戦への興奮を抑えながらなぜかすがすがしい気持ちだった。


80年代とその後に読んだ邱永漢の著作


独立のきっかけとなる「人生後半のための経済設計」