けろやん。メモ このページをアンテナに追加

2017年02月18日(土)

[] 自己を律するという自覚について。

書いた。

けろやん。メモーフェイスブックを卒業して、ブログについて考えたこと。

他にもいくつかブログを書いている理由はあるんだけど、それについてはまた別の機会で。

書いておこう。

私にとってブログを書くという行為(ちょっと大袈裟かな)は、体調管理のメルクマールなんだ。これは、私だけではなくブログを書いている人は、多かれ少なかれ感じていることだと思う。私には、それが人に比べて大いに強く、かつ自覚的に行っている。

メルクマール。更新頻度はもちろんだけど、書いた内容なんかもチェックポイントだね。特に後者。私は赤面しちゃうけど、自分の書いたエントリをときどき読み返している。

読み返してみると「なんて馬鹿なことを書いてしまったんだよ!」とか「恥ずかしことを書いてしまったよ(´・ω・`)・・・」ってなることがよくあるんだ。あるいは「自分が書いたものではないくらいにしっかりと書けてしまっているじゃないか!」と思うこともある。

そういう読み返しから、書いた時の出来事・状況を思い出して体調だったり精神状態だったりを自覚する。先に掲げたエントリでも書いたことだけど、こういうことは紙のノートに書いていけばいいじゃないかという面もあるんだけど、ブログという文章を公開するツールを与えられているので、人に読んでもらえるように加工(あるいは一呼吸置いて)して書いているんだ。

先に述べた自覚するということ。これってとても大切なことだと思っている。人は場の空気を読むとか外界のことについては、ある種「感覚」として持っている。これ最近では失われかけているかな(とくにネット上の言説においては)?さておき、外界への観察を自己の内面に向けるという自覚。

極論だけど、私はこの自己観察というものを欠いたら生きていく資格がないとすら思っている。自覚するということは自己を律するということじゃないかな。悩みを抱えて自己を律することができない時があるかもしれないけど、やっぱりその律するという気持ちを忘れないで生活していきたいなって思う。

ーーー

といつものように、ブログを書いている理由から自覚とかの話に流れちゃいました。

tamamusitamamusi 2017/02/20 00:32 けろやん。ごむばんは。
まるで自分が書いた文章のように共感しました。
恥ずかしいくらいに恥がなくなった世界で、一つの救いであります。
自分を晒すということは、一つの自己認知であると思います。ども。

kerodonkerodon 2017/02/21 08:20 >tamamusiさん
こんにちは。感想をどうもありがとうございました。ネットの進展の害悪について議論になることがしばしば(頻繁に)あると思いますが、話すことが苦手でときとして失語症になりかける私にとって、ブログという場が与えられていることは嬉しく思っています。「自分を晒すということ」あるいは「自分の思いを伝える」ことができるからね。

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