けろやん。メモ このページをアンテナに追加

2011年03月27日(日)

[] 選手宣誓の全文

高校野球の選手宣誓がTBSで放映されているのを観たが、涙がこぼれそうになった。

インターネットを探してみると全文掲載されていたので、ここでも全文掲載しておこうと思う。

開会式の選手宣誓全文=高校野球

 宣誓。

 私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。

 被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。

 私たちに、今、できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。

 「がんばろう!日本」。生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。 

 平成23年3月23日

   創志学園高等学校野球部主将 野山慎介(2011/03/23-09:50)

(太字化は引用者)

2007年08月05日(日)

[] 願望に向かう列車。

ネット上で拾った*1言葉。

そしてこの「〜であるべきだ」が自分に向かうと「不安」、他人に向かうと「怒り」、社会に向かうと「落ち込み」を生ずるらしい。では、どーしたらよいのか?お館さまのように「〜であるか」とエラソウにするか、「〜であるならいいなあ」と願望にむかえば感謝が生まれるであろうよ。

(太字化は引用者)

ふむふむ。

*1:集めたという意味。

2007年05月30日(水) 極東方面の書き込みロックが解除されていた、嬉しいよ。

[][] 言霊の国

ネット速度から考えると古い話になりますが、東京新聞07年5月10日付(夕)に私の好きな歌が掲載されていました。*1その歌は、下記の歌であり、皆様も目にしたことがあるかと思います。

敷島の大和の国は言霊の佐くる国そ真幸くありこそ

この歌は、言霊という概念を語るときに、必ずといってもいいほどに言及される歌です。大和の国は、言霊が守ってくれている国ですよ、幸がありますよ、という意味ですね。そして、上記記事でも、次のように解説されていました。

歌など特別な形式で発した言葉は現実のこととなるという言霊信仰によって旅の安全を願う歌。その信仰は忌み言葉のような形で今も私たちの心に残っている。

ちょっと寂しい解説です。いや、内容がドウとかではなく、「忌み言葉のような形で残っている」というところ。すなわち、言霊とは、忌み言葉という負の言葉だけが、残っている(意識される)けれども、本来は祝詞に代表される「言葉で発すると正なる」言葉も含まれていたのです。

言霊(wikipedia)

声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発するとよいことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事がおこるとされた。

−−−

ここまでは枕。面白かったのは、上記記事の締め括りの言葉が、

今日一日よい日でありますように。

夕刊で締める言葉じゃないですよ!

*1:大浦誠士執筆の「万葉のこころ」。

2007年05月26日(土)

[] 半角板と楓(カエデ)の関係について。 

「画像ちゃんねる」管理者ら、猥褻画像公然陳列の共犯容疑で逮捕

http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/05/24/15823.html

神奈川県警察本部生活保安課と南警察署は23日、画像掲示板サイト「画像ちゃんねる」に猥褻な画像を掲載していた事件について、サイト運営会社の社長ら7人を共犯被疑者として逮捕したと発表した。

私は、「猥褻画像」を卒業したので、まったく影響がないのですが。

(前略)大手アップローダーサイトが閉鎖

では、阿鼻叫喚の嵐になっているようですね。

135 名前:プロ棋士(コネチカット州)[] 投稿日:2007/05/24(木) 20:27:11 ID:VMI3Nu4HO

家帰った後の唯一の楽しみがなくなった。この哀しみや怒りをどこにぶつければ・・・・

という魂の雄叫びがあったり、

52 名前: 経済評論家(北海道)[] 投稿日:2007/05/24(木) 20:18:31 ID:DaSn4L8I0

国家権力死ね

という、政治的アナーキストなのか、ただ単にエロイのだが、俄かには峻別の付かない発言があったり。

で、まとめなのか、釣りなのかよく分りませんが、

Googleが日本の法律に従うならば、Googleは確実に違法

なんてなエントリも人気を集めているようで。私が気になったのは、下記からの言葉で、締め括られている点。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき(wikipedia)

これって、

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50836897.html

でも、引用されているのですね。タイムスタンプを見ると、

2007年05月23日 01:30

で、前出のGigazineは、

2007年05月24日 20時02分00秒

こういうのは、パクリとは言わないのかなあ。

−−−

まあ、ここまでは、私の卒業した「猥褻画像」が、ドッタラコッタラした話で興味がないわけですが。ちょっと、思い出したのが半角板(昔はお世話になっておりました)。で、その名前の由来に関する面白い2ちゃんねるのレスがあったのを思い出したので、調べてみました。

google検索「半角板 由来」

すると、

紅葉 と 楓 の違いを教えてください。 - 5月25日名前の由来> モミジ:紅葉する事から カエデ:葉の形が「カエルの手」に似ている事から

と、何故かカエルという言葉が目に飛び込んできたので、半角板の由来は放っておいて、覗いてみると、

★紅葉 と 楓 の違いを教えてください。

16 名前: (´く_` ) 投稿日: 01/11/27 22:01

>>8の内容を補っておく。

紅葉(モミジ)も楓(カエデ)も同じカエデ属の植物。

<名前の由来>

モミジ:紅葉する事から

カエデ:葉の形が「カエルの手」に似ている事から

という興味深いレスがあったのですが、2ちゃんねらーの書いていることだから、どうせプゲラッチョな話であろうよ、プ、と蔑視的に思いながらも、上記リンク先内で紹介されていた

http://www.inh.co.jp/~hayasida/report1.html

に飛んでみると、綺麗な写真の後に、

カエデの名は万葉集に「かえるで」とあることからきます。葉の形がカエルの手(足)に似るからといわれています。

という記述があり、カエデもカエルも好きな私はなんだか嬉しくなりました。

2007年05月21日(月)

[] K・ロヤーン「上がりかまちの句読点」

2ちゃんねるで、句読点(くとうてん)が話題になっていたので、少しだけ調べてみた。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/7112/howto/text02-04-01.html−−−(A)

句読点というものは、歴史があるようでありません。海外ではどうなのか分かりませんが、日本では正式に使われ始めるのは、江戸後期か明治からだと思います。古文書を見たことがある方なら分かりますが、句読点はありません。おそらく楷書が普通化した辺りから使用されたのではないでしょうか。

あるいは、

http://joram.agz.jp/diary/2004-02.html

句読点の歴史というのは意外と浅く,一般に用いられるようになったのは明治20年代以降で,さらに広く使われるようになったのは昭和に入ってからだそうです.考えてみれば昔の古文書のようにグニャグニャした文にはマルもテンもないですね.もともと日本語には句読点を打つ習慣がなくて,賞状や証書などのかしこまった文章には句読点がなく,句読点が普及した今もそういった名残があります.

とのこと。

歴史と離れて、上記リンク(A)を読むと、

(前略)このような場合に、読点を打つのが普通でしょう。そのうえで、あとは自分の感性や経験によって打つことになります。逆に、小説や論文などを読むとき、読点の打ち方を見ると、その文章のレベルも分かると言えるでしょう。

(太字は引用者)

とあります。フムフム。

確かに、句読点の打ち方は、百人百様であり、書く人の「感性や経験」に左右されるように思います。いや、「百人百様」ではなく、「一人百様」と言えるかもしれません。すなわち、書く人の心の状態、いわゆるテンションの高低によって、打ち方が異なるというのは、私自身の経験では明らかです。

いずれにしても、文章の内容を明確に示すという役割のほか、文章のリズムとして(これは主として、文章の読み手が受け取るリズム)、句読点は大きな役割を果たしているのではないか、と思う次第です。*1

句読点の歴史については、

日本語の歴史 (岩波新書)

日本語の歴史 (岩波新書)

に、書かれていたような気がします。

*1:漢字仮名混じりの文章の場合、極端な話、句読点が皆無であったとしても、内容を理解することが可能であると思います。

2007年05月20日(日)

[] 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

先に書いたエントリの追記内の言葉「消すことだけが人生さ!」は、

さよならだけが人生だ

のパクりであるわけですが。さて、この言葉、もともとは于武陵「勧酒」からの言葉です。調べてみると*1、原文は、

人生足別離

ということで、まあ淡々と、あるいは良く言えばケレンを削ぎ落とした言葉。で、それが浪花節的に「さよならだけが人生だ」*2とキャッチとして昇華したのは、井伏鱒二の訳業に寄るところが大きいようですね。。

さて、ここで考えてみましょう。「消すこと」と「さよなら」の違い。共通するのは、「私の視界からナニカが無くなってしまう」*3ということですね。記憶を消す、あるいは好きだったあの人とさよならする。

ところが、「消すこと」と「さよなら」には大きな違いもあります。消すことが能動的で、さよならは受動的?いえいえ。さよならが受動的であると短絡的に考えてしまうのは、好きな女性からフラれてばかりの私みたいな人だけでしょう。能動的に「さよなら」することもありますね。

では、何処が違うのか?「消すこと」を実行すると、そこには何も残らない。今回の例を考えると、トラックバックを消した本人には、「またバカ蛙がうっとおしいTBを送ってきやがったぜ、ちっ!」というくらいの記憶は残るかも知れません。しかし、ブログという平面筐体からは、削り除かれ、文字通り削除されて痕跡も、クソも残らない。まあ、クリック一つで排除可能な、非常に現代的な有体ですね。

ところが、「さよなら」となると、これは話が大きく異なります。受動的に「さよなら」されたり、能動的に「さよなら」したりしても、記憶から削除されるのには時間がかかるわけです。

ええっ?さっき「消すこと」でも消した本人の記憶には残る」って書いたじゃないか!という、のは早ガッテン。「消すこと」の第一義的効果は、状況として(今回の例を考えるとブログの状況)削除され、痕跡も、クソも残らないということです。

まあ、自分で書きながら、薄蒼い夜空の星を見ながら、「なんだかんだと鬱陶しいぜ!」by.清志郎、ということで本題「さよならの意味?」については、また次回。

*1:⇒http://homepage3.nifty.com/park/juku/omosiro7.htm

*2:↑に拠ると「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」

*3:能動的であれ受動的であれ、結果としての喪失。

2007年04月13日(金)

[] 歩く足

ちょっと古い記事。日経新聞、07年3月15日付夕刊の「人間発見:山で育てた不屈の闘志ぁ廚箸いο∈楜事で、登山家の芳野満彦氏が語っていた。

(なぜ山に登るのか、という問いに)

「そこに希望があるからだ。だから、僕は、涙して歩く」

背景を考えると考えさせられる。芳野満彦氏は、たしか高校時代に冬の赤岳山頂で遭難し、友人を亡くし、自身も凍傷で足の指を切断した。しかし、その後、本格的な山行が始まる。例えば、

  • 1958年、北岳バットレス中央稜、初登攀
  • 1965年、マッターホルン北壁、日本人初登攀

そのマッターホルン北壁登頂の様子が上記記事に記載されている。

七歳年下の二十七歳と若く体力がある渡部君がトップでほぼ垂直の千二百メートルの氷の壁を蹴散らして登っていく。もの凄い体力が必要だった。(略)これまでずっとトップを引き受けてくれた渡部君が、あとニ、三十メートルというところで、「芳野さん、疲れたから代わってください」という。少し言い争ったが、うれしかった。日本人のだれもなし得なかったアルプスの三大北壁の一つの山頂に達したのだ。二人とも後から後から流れ出る涙をとめることができなかった。

その一週間後に、渡部(恒明)氏は、アイガー北壁で墜死してしまう・・・。

−−−

・・・水晶岳のヘリコプター墜落事故のニュースをテレビで観て、ふと上記記事のことを思い出しました。