アーロン収容所―西欧ヒューマニズムの限界

本書では、著者がビルマにおいて送った2年弱のイギリス軍捕虜生活から見えた、普通の交際からでは知り得ないイギリス人の正体について考察されている。イギリス軍の捕虜に対する扱いから、イギリスを含むヨーロッパの人々の底流に流れている東洋人に対する考えが理解されたという。


それは、ヨーロッパの人々が努力して威張っているのではなく、彼らの東洋人に対する絶対的優越性は、まったく自然なものであるということである。私たちが、家畜や虫に対して感じるような絶対的優越性を彼らは私たちに持っているというのである。


当初著者は、戦争に負けて捕虜になったら、日本軍が捕虜を扱ったように(捕虜の虐殺や無理な行軍)いわゆる”残忍”に扱われると考えていたようである。しかし、いざ捕虜になってみたらイギリス軍は捕虜に対しての殴る蹴るの直接行動はほとんどなかったという。絶対的に優位なのだから、殴る蹴るで優位性を感じる必要はないのだ*1


捕虜に生きるに最低限の食料を与え、最大限の労働をさせた。きわめて合理的である。その合理性から言えば、殴る蹴るはきわめて非合理的な行為といえる。しかし、著者はその一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、復讐がこめられているのを感じたという。


例えば、イギリス人が排泄中にトイレの掃除を行っても、彼らはチラッと捕虜と確認するのみで、行為を継続したという。まるで、用を足している我々が、足元にゴキブリがいるのを見てもそのまま用をたし続けるのと同じではないか!


そして、彼らの東洋人に対するこういった見方は、彼らの宗教観、つまりキリスト教に因を求めることができると著者はしている。


キリスト教で動物は、人間に使われるために、利用されるために、食われるために、神に創造されたとされている。つまり、人間と動物の間に激しい断絶を規定した宗教なのである。何で断絶を規定するかといえば、信仰の相違や皮膚の色などとなり、我々モンゴロイドネグロイドまたは非キリスト教徒は、動物ということになる。


イギリス軍から供されていた米に泥と砂が3割程度混じっていたので文句を言ったところ、「家畜飼料として使用しており、なんら害のなきものである」と返答されたという事実も書かれていた。まさに、捕虜を家畜として飼っていたのである。


他民族に対する差別意識*2はどの民族においても存在するであろう。しかし、日本人の差別意識とヨーロッパ(アメリカ)の人々の差別意識はまるで違う。私たちの差別は、優劣はともかく、異質の存在を排除する方向のものだと思う。しかし、彼らの差別意識は、他者はおらず、自分たち以外は家畜というものなのだ。


現代においても、まだ彼らにはそういった考えが根強くあると思う。アメリカ(ブッシュ)は対話ということを知らなかったし、イタリアの首相なんかは、アメリカの現大統領のことを「日焼けしすぎw」と繰り返し発言している。


宗教戦争でもして、家畜に飼われる日がくるまで世界は変われないのかもしれない。

*1:通常、殺した家畜を執拗に刺し続けるなんてしない。通常

*2:日本人が考えるところの差別