からの疎外/への疎外

読書

からの疎外/への疎外

からのそがいあるいはへのそがい

「疎外」「物象化」をめぐってあれこれ無秩序に - インタラクティヴ読書ノート別館の別館太字引用者)

> 疎外論的な「人間的本質」の発想がやばい、という指摘自体はもちろん、新しいものではない。古くはハンナ・アレントが『人間の条件』で、問題は「人間疎外」ではなく、自分をそんな御大層な「人間」様にまつりあげて他のことに目がいかない「世界疎外」である、なんて趣旨のことを言っていたが、「疎外論」流行の時代についていえばそれこそ論敵「物象化論」――もちろん疎外論も「物象化」概念を用いるが、ここでは廣松渉流のものを念頭に置く――がこの種の批判を精力的に展開していた。

 キャッチーで分かりやすかったのは見田宗介真木悠介の「からの疎外/への疎外」の対概念をもちいたレトリックである。乱暴に言えば「お金がなくて辛い(お金からの疎外)のは、お金がないと辛い世の中に生きている(お金への疎外)からだ」というわけだ。この伝で言えば「人間性を疎外されて辛いのは、人間性が疎外されていると辛い世の中に生きているからだ」ということになる。より根底的であるのは後者の「への疎外」の方であり、その前提の上に初めて「からの疎外」が成り立ちうる。そしてここでは、疎外を克服するよりラディカルな仕方は当然、「お金」だの「人間性」だのといった欲望の対象(フェティッシュ=物神)を十分に獲得することよりも、そうした欲望そのものから脱却することだ、ということになる。またかわいそうなのはお金のない貧乏人や疎外された人々だけではなく、お金持ちや幸福な善人もまた、実は疎外されていてかわいそう、ということになる。

 物象化論によれば、こういうフェティッシュマッチポンプ的な構造を持っているから、その呪縛のうちにとどまる限り、人は決して満たされることはない(お金はいくらあっても足りない)。となると、より根底的な人間の解放は、後者の路線によってのみなされうる、という理屈がここからは容易に出てくる。しかし実はこの理屈――このような「物象化論」解釈では、批判の対象であったはずの「疎外論」から帰結する解放戦略と五十歩百歩のものしか出てこなくなる。どういうことかといえば、こういう「物象化論」解釈では結局、あらゆる疎外から解放された「無の境地」――ドゥルーズガタリ流に言えば「器官なき身体」が「疎外論」的な「人間性」と言葉は違えど実質的に同じ意味を持ってしまうからだ。<