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インドシナ戦争

(社会)
いんどしなせんそう

Indochina War(英)

フランス領インドシナで行われた独立戦争。1946年〜1954年。

前史

第二次世界大戦中、フランス本国はナチスドイツの軍門に降り、日本はその機に乗じて仏印進駐を行った。したがって、(オランダ領やイギリス領だった)他地域と異なり植民地支配を行っていた宗主国が日本軍の戦闘によって駆逐されたわけではなかったが、それでも独立を企てる民族主義者たちにとってはフランスの権威を失墜させるイベントであったのは間違いない。

戦争中の1941年に、ホーチミン(胡志明)はベトミン(越盟、ベトナム独立同盟会)を組織し、独立を目指すための闘争を開始した。
日本側敗色が濃厚となった1945年、日本軍は現地のフランス植民地軍を武装解除し、これによって一応は存続してきたフランスの統治機構は破壊された。また、この年はベトナム国内で飢饉が発生し、大きな社会的動揺が起きていた。これを見たホーチミンは活動をステップアップし、日本降伏の間隙を突く形で8月に全土で蜂起を起こし権力の掌握に成功、9月2日にベトナム民主共和国の独立を宣言した。
一方、連合国はインドシナ半島の日本軍を武装解除するための占領部隊を派遣し、その撤退後はフランス軍が全土に駐留する形になった。
フランスも一応はベトナム民主共和国の存在を認めていたが、完全独立などを認めるつもりはなかった。フランスは南ベトナムにコーチシナ共和国を建て*1、ホーチミン率いるベトミンとの激突は避けられないものとなった。

開戦

1946年12月ハノイでフランス軍とベトナム人の衝突が発生、戦争が始まった。
戦いは当初、本国からの潤沢な補給を受けられるフランス軍が、わずかな武器しか持たないベトミン軍を圧倒する展開から始まった。危機に陥ったベトナム側は沿岸の都市を放棄して、北部の山岳地帯に根拠を移した。ベトナム側にとって、1949年の中華人民共和国の樹立は大きな追い風であり、新たな中国からの支援を受けて戦力の充実を図った。
戦闘の基本的な構図はベトナム戦争前期と同様で、ベトミンはゲリラ戦では大きな成果を上げるが、敵正規軍と正面切って戦った戦場では大きな損害を受けるという図式で進んだ。
1952年についにベトミン軍は本格的な攻勢に出て、ベトナム全土への浸透を図る。占領地域は一気に拡大し、フランス軍は拠点へと追い込まれていく。フランスは危機感を強め、新たな司令官、アンリ・ナヴァールが送り込まれた。
1953年11月、フランス軍はベトナム領奥深く、ラオスとの交通線上に位置する要衝ディエン・ビエン・フーに侵攻し、巨大な基地を築いた。これによってラオス経由での南部への補給ルートを断ち切ろうというのである。ベトミン軍はこれに対応し、正規軍三個師団と有力な支援部隊を送り込んだ。
ゲリラ戦によってディエン・ビエン・フーは孤立し、さらに周囲には人力で搬入された重砲群が配置された。
1954年3月、満を持したベトミン軍の総攻撃が開始された。双方の砲兵によって戦闘部隊の損害は鰻登りとなったが、それでもベトミン側は一つ一つ陣地を制圧していき、フランス軍の生命線である滑走路を目指す。滑走路が使用不能となったことで5月7日についにフランス軍は降伏、戦いは終わった。
1954年7月にジュネーブ協定が締結され、インドシナ戦争は終わり、フランスはインドシナから全面撤退することになった。
つづく。

*1:のちのベトナム国

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