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エゴン・シーレ

アート

エゴン・シーレ

えごんしーれ

Egon Leo Adolf Schiele(1890〜1918)。

ウィーン世紀末」を代表するオーストリアの画家。風景や人物画で出色の仕事を残した。

概要

・「自画像の画家」と呼ばれるほど沢山の作品を残す。

・300点以上の油絵と約2500点の素描ドローイングの作品。うち油絵で45点、素描ドローイングで165点が自画像。

・虚飾なしにありのままの自分を鋭く切り取ったような画風は,当時は受け入れがたい物であったが,現在では高く評価されている。

ウィーンの「オーストリア美術館」はもちろん、最近「ウィーン美術史美術館」の目の前にできた「MQ(ミュージアム・クォーター)」内のレオポルド美術館にも見るべきコレクションは多い。

・現在、ウィーンから車で30分ほどのトゥルンの実家は、「エゴン・シーレ博物館」として公開されている。内部には、画家がわいせつ罪に問われ、収容された独房まで再現された、なかなか立派な建物である。

・日本では「ジョジョの奇妙な冒険」の荒木飛呂彦が影響を受けている。


生涯と芸術

1890年ドナウ川に面したトゥルンという小さな町の駅舎の2階で生まれる。父はオーストリア帝国鉄道局につとめる官吏。成長したシーレはトゥルンのクレムスにある理系のギムナジウムに入学するが、成績はかんばしくなく、第一学年を繰り返す落第生だった。やがて梅毒による進行性麻痺によって父が退職、クロスタノイブルクに転地すると、シーレも当地の学校に転入。ここでも成績があがることはなかった。シーレが15歳になる1905年が開けてすぐの1日未明、父が梅毒によって死去し、思春期にさしかかっていた画家に、生涯引きずる衝撃を与えた。

後見人になった叔父は猛反対したが、結局、成績もあがらない学業を無理につづけさせるより、描き続けていた絵を専門でやらせてはどうか、という話になり、16歳になったシーレウィーン美術史アカデミーに合格。しかし、反動的なアカデミスムにとらわれた教師との関係はしだいに険悪なものとなる。1907年にはクリムトと知り合い、作品を見てもらうだけでなく、デッサンの交換の約束まで取り付けることに成功。時代の寵児であり、新芸術の旗手だった彼を通じ、新しい時代の息吹に触れるだけでなく、確信をえたシーレ1909年アカデミーを仲間とともに退学。30歳近く年の離れていたクリムトだが、シーレとは師匠と弟子というより、終生まるで仲間のような関係だった。

ウィーン工房のために絵葉書のデザインをしたり、絵画でも実験的な試みを成功させ、小規模ながら個展を開催したのち、ウィーンからオーストリア北東部ノイレングバッハに移住する。シーレを慕い、ウィーンからつれてきた女性モデルのヴァリー・ノイツェルとの同棲生活も不道徳なものだとされた。さらに、近隣の少女をアトリエにつれて来て描いているらしい、ヌードの画像が、住民のモラルを刺激した。日々、シーレに対する不信感を高めた住民感情とは裏腹に、画家の創作欲は尽きることをしらず、最初の版画作品「ヌードの自画像」が出版されたりするなど、自分の作風を確立していった。


エゴン・シーレ 魂の裸像 (ART&WORdS)

「永遠の子供」とか「性と死の画家」などと簡単に語られ、それだけで片付けられがちなシーレだが、それではあまりに惜しい。シーレはおびただしい数の、克明な性器の描写を含む自分の裸体を描き続けたが、それは単純なナルティシズムや自己性愛的な感覚を超え、性/生の間に潜む、死やその先までを見通そうというような透徹した意識が感じられる。

同じような態度はモデルを置いての作成でも変わらなかった。同じく人間を描かない場合でも、町の絵は題名からして「死の町」であり、シーレの「ひまわり」は、すでに盛りをすぎ、崩れ落ちようとしている。ヴァン・ゴッホの同名作品とは正反対だ。作画の方法も、実際の絵画に接すればわかるように、伝統的な油彩法から、いったん塗った絵の具をベンジンなどで溶かしてふき取ったりをはじめ、同じテーマの作品であったとしても、一枚一枚、自己模倣に陥ることはなく、やや特殊な手段をとってまで、自分だけのイメージを画面に焼き付けようと工夫をかさねていた。

しかし、そんな芸術的な盛り上がりを見せた創作活動のさなか、1912年シーレ宅に警官が訪れ、監獄に画家を連行する事件がおきた。少女誘拐と絵画わいせつ性を問われたのだった。このまま、ザンクトベルテンの地方裁判所で釈放されるまで、一ヶ月ほども拘留されることになった。

シーレはこのことのスキャンダル性を認識できなかったといわれる。家出少女を2日ほどかくまったという良いことがどうして、自分を牢に入れる結果をもたらしたのか。それがわからない「純粋」なシーレを励まし、守るために、ヴァリーは、毎日のように監獄まで面会に通い続けた。面会が拒否された日は、手紙や差し入れの果物をシーレのいる独房の窓にまで投げ込んだりした。

少女たちとともに、シーレはヴァリーを繰り返し描いていた。

ふたりはまるで双子のように似ていたとも言われる。「自画像の画家」とも呼ばれるシーレがヴァリーに関心を抱いたのは、そうした側面も強いだろう。

やがて釈放されたシーレは傷心のまま、ヴァリーとウィーンに戻る。しかし、となりの家にすむ姉妹に心を惹かれるようになったシーレは結婚について思いをめぐらせるようになった。結婚相手はそのどちらでもよかった、というから、よくわからない。ただ、結婚というものが自分を守ってくれるのではないか、と思っていたらしい。無論、ヴァリーのような根無し草の女は結婚相手には入らなかった。ヴァリーと手を切ることを条件に、姉妹のうち姉であるエディットがシーレのプロポーズを受け入れる。シーレは最後の日、ヴァリーに手紙を手渡す。それにはエディット抜きで毎夏どこかに二人で出かけよう、という彼にしては精一杯の「ねぎらい」の言葉が書かれていたが、ヴァリーは無表情に「ナイン、ダンケ(ありがとう、でも駄目)」とだけ答えた。ヴァリーはその後、野戦看護婦として従軍、1917年に戦地で亡くなる。

新妻エディットをモデルにした絵画には、これまでにない柔らかな肉感性が見られる。しかし、結婚の3年後、ヨーロッパ全土に異様な流行をみたインフルエンザに、子供を宿していたエディットがまず冒され、苦しみもがいて亡くなる。そのさまを目の当たりにした28歳のシーレは「自分ももうすぐ死ぬ」という観念に突き動かされた。家の窓という窓を閉め、扉を閉ざして恐れおののいたが、それもむなしく、妻の死の3日後、1918年10月31日、自分の死の瞬間をカメラに収めさせながら、息を引き取った。


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