スマートフォン用の表示で見る

エドガー・アラン・ポー

読書

エドガー・アラン・ポー

えどがーあらんぽー

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe, 1809-1849)

詩人小説家

 1809年1月19日、旅役者をしていたデヴィッド・ポー・ジュニアと女優エリザベス・アーノルド・ホプキンスの第二子として、ボストンに生まれる。ポーが生まれて9ヵ月後、デイビッドはエリザベスとポーを残して蒸発。まだ若かった母エリザベスは、2人の子どもを連れてチャールストン、ノーフォークリッチモンドと転々と仕事を求めて歩き回らねばならなかった。この過労から1811年12月、エリザベスは肺病に罹り死去する。この時の母との生活は、およそポーの人生や想像力の大半を決定付ける要因となったと見てもいいだろう。彼の詩や物語に現れる、穢れなき若き女性への憧憬のごとき感情は、ポーにおいては若くして死んだ母との想い出の中から生み出された。彼は、終生、母の似姿をペンダントに入れて肌身離さず持っていたというエピソードが伝えられている。

 早くして両親に死なれたポーは、兄弟とは別の家族、当時子どもがいなかった豪商ジョン・アランとフランシス・アランの夫婦に引き取られることになった。ポーのミドル・ネームは、この夫婦の姓から付けられている。家は当時裕福であった。イギリスにも商売を広げていたジョンに付き従って、幼いポーは7歳から11歳の多感な時代をイギリスで過ごすことになる。この時の経験は、ポーの、後に開花する文学的感性を形成する一端を担っていたといえるだろう。アメリカに帰国した後、ポーはいよいよ自らの文学を開始する。1827年には、その当時直面していた義父との関係悪化の憂さを晴らすかのごとくに、高度に美学耽美的な詩集"Tamerlabe and Other Poems"を発表、さらに代表的な詩である「アル・アーラーフ」を含んだ第二詩集1829年、第三詩集1831年と矢継ぎ早に出版していく。この1831年頃までは、ポーは詩人であったが、ちょうどこの頃からポーは短編を書き始めたといわれている。その最初の成果は、1833年に雑誌に掲載された短編、「ボトルの中の手紙」であった。この短編の成功から、詩人でありながら、小説家としてもデヴューを果たし、さらにはあまり知られていないことだが、雑誌の編集者としてのキャリアもスタートさせることになる。ポーの短編に目を付けた編集者が、ポーを「南部文学通信」(Southern Literary Messenger)の主筆として推薦し、そこで文芸批評に辣腕を振るったのであった。

 それからのポーは、旺盛な創作力を活かして、数々の短編、詩を発表する。1838年には、唯一の長編小説である『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』を発表。この小説は、現在でもポーの諸作品の中ではそれほど注目されてはいないが、この物語の最後に現れる全てが白に覆われるイメージは、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』に影響を与えたのではないか、といわれている。また、1839年には、代表的な短編である「アッシャー家の崩壊」や「ウィリアム・ウィルソン」などを納めた第一短編集『グロテスクとアラベスクの物語』を出版し、1843年には後世に「最初の探偵小説」という栄誉を与えられ、その後数々のジャンルを切り開く原動力になった「モルグ街の殺人」*1や、「黒猫」などを含んだ第二短編集を発表。また代表的な詩を数多く収録した最後の詩集である『大鴉』を1845年に出版している。しかしその後は、健康の衰えと供に創作力も衰退し、1849年10月、選挙の声喧しいボストンの路上にてこん睡状態に陥っているポーが発見される。泥酔状態であったという。結局その昏睡から回復することなく、永眠する。40歳。

 その死の謎めいた有様と同様、ポーの人生と文学と詩は、数々のいわくや伝説に彩られている。その中でも、彼の人生を決定付けた母の死の影響と、それからの「母」的なる存在を求めて数々の女性を遍歴したポーのロマンスは、彼の人生の大半を彩る。そうした女性の遍歴は、最終的には1837年に結婚した妻ヴァージニアに帰結する。従姉妹であり、しかも14歳という若さの少女と結婚したポーは*2、彼女に対して一種プラトン的な神聖な愛を捧げた。その愛は、まさに形而上的で観念的な、イデアとしての愛であり、彼らに子どもがなかったこともあって、終生男女の関係にはならなかたのではないか、と指摘する研究家もいる。ヴァージニアとの結婚後、彼の書く小説や詩は、ヴァージニア的な神聖なる女性のイメージを創造力の核として形作られることになる。しかし、元来病弱であったヴァージニアは、ほとんど満足な稼ぎも得られないポーとの生活の中で著しく健康を害し、1847年24歳の若さでポーは彼女を失うことになる。いわば、第二の「母」の喪失であった。ポーの失意と絶望は深く、妻の死後二年後にアルコールによる消耗と昏睡で死んだことを考え合わせると、彼にとってのヴァージニアは、肉体的な意味においても文学的な意味においても、命そのものであったのだといえるのかもしれない。

 ポーの文学の性質を述べるのは、その後世への影響も考えると膨大なものになる。一言で言えば、ジャンル意識がことさらに発達した作家だったといるのだろう。詩、怪奇小説推理小説、SF小説、冒険小説など多くの領域にまたがって作品を残した彼の天才は、しかしながら、同時代のアメリカにはほとんど理解されなかった。確かに雑誌に掲載はされるのだが、それでもらえる金銭はわずかばかりで、最終的には妻を貧困で失ったことを考えても、ポーの文学的・財政的状況は悲劇的なものであった。文学マーケットが未成立であったという当時の状況も、ポーにとっては不運であったといえる。その一方で、ほとんど同時代のフランスにおいては、ボードレールらによってポーの天分は、過剰なまでに激賞された。その激賞はポーの本国での地位の低さをいかばかりも救うことはなかったが、純粋芸術、純粋詩の創始者としての王冠を与えられたポーは、その後長きに渡ってフランスの詩人文学者たちに影響を与え続ける。また、こうしたポーの文学の影響を最も強く受けた者は、やはり日本の江戸川乱歩であるといえるだろう。*3名前自体がエドガー・アラン・ポーのもじりであることからも、その敬愛と賞賛の深さは窺い知れる。ポーの超時代的・超国家的な文学的性質が、アメリカではなく、他国におけるポーの名声をこれほどまでに強く確立した一因なのだろう。今では、最もよく読まれる海外古典の一つになるほどに、ポーの文学は我々に親しいものになっている。

  • 代表作
    • Tamerlabe and Other Poems, 1827
    • Al Aaraaf, Tamerlane and Minor Poems, 1829
    • Poems by Edgar Allan Poe, Second Edition, 1831
    • 『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』(The Narrative of Arthur Gordon Pym, 1838)
    • 『グロテスクとアラベスクの物語』(Tales of the Grotesque and Arabesque, 1839)
    • Tales, 1843
    • 『大鴉』(The Raven and Other Poems, 1845)

*1オーギュスト・デュパンという探偵を登場させ、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンの原型を作った。この功績により、推理小説の祖と言われることになる。

*2:それまでにも酒癖の悪さと数々の悪行、雑誌での誹謗じみた批評などで悪名が高かったポーは、性的な倒錯者ではないかという嫌疑をかけられ、ますますその悪名に拍車がかかった。

*3:他に日本では芥川龍之介谷崎潤一郎などの作家がポーに私淑した。