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エメ・セゼール

(読書)
えめせぜーる

詩人、劇作家、政治家。

誕生・高校

1913年6月26日にマルティニーク島(La Martinique)北東部のバス・ポワント(Basse-Pointe)村に大家族の息子として生まれる。父は教師、母は裁縫を事としていた。

マルティニークの首府フォール・ド・フランス市のヴィクトル・シェルシェール(Victor Schœlcher)高校で優秀な成績を収めたエメ・セゼールはフランス共和国の官費留学生として1931年にパリのルイ・ル・グラン高校(Lycée Louis-Le-Grand)の高等師範学校の進学準備学級に入学する。ここで生涯の友人となる数歳年長のレオポルド・セダール・サンゴール(Léopold Sédar Senghor フランス領セネガル出身)と出会う。
1935年に高等師範学校(École normale supérieure)入学。文学のアグレガシオン(教授資格)を取得。

ネグリチュード運動、「帰郷ノート」、帰郷

1934年9月にパリでサンゴールやレオン・ダマスらと文芸誌「黒人学生」L'Étudiant Noirを発行する。これがネグリチュード(Négritude 黒人性)運動のさきがけとなる。

ヴィシー政権下

1936年にはエメ・セゼールの代表作となる「帰郷ノート」Cahier d'un retour au pays natalの執筆を開始。
1937年に同級生でやはりマルティニーク出身のシュザンヌ・ルーシ(Suzanne Roussi)と結婚。
1939年、「帰郷ノート」をパリで発表し、その直後に夫妻は息子を伴いマルティニークへ帰郷。母校ヴィクトル・シェルシェール高校で夫妻ともに教鞭をとる。エメ・セゼールの生徒にはフランツ・ファノンやエデュアール・グリッサンがいた。

1930年代のマルティニークの知識人は宗主国フランスに追従するばかりだった。このフランス文化への服従を否定し、マルティニークのアイデンティティを復活する目的でセゼール夫妻は友人ルネ・メニル(René Ménil)やアリスティド・モジェ(Aristide Maugée)とともに文芸誌「熱帯」Tropiquesを発刊する。

第二次世界大戦中に合衆国への亡命途中にマルティニークに滞在したアンドレ・ブルトンはエメ・セゼールと近づきになり、1944年発表のセゼールの詩集「奇跡の武器」Les armes miraculeusesの序文を書く。また1947年版の「帰郷ノート」Cahier d'un retour au pays natalの序文に『これは現代の最大の抒情詩だ』と書いてエメ・セゼールの名を高らしめた。
しかし同大戦中はヴィシー政権をナチス寄りだとする米国がマルティニークを経済封鎖して生活水準が極度に落ちる。またヴィシー政権のマルティニーク代表Robert総督は人種差別的、かつ強圧的な政策をとり、黒人議員の議員資格を剥奪し、これを混血有力者に代える。こうした困難な状況で雑誌「熱帯」Tropiquesは1943年までもちこたえる。

戦後

1945年にセゼールは共産党議員としてマルティニク代表の国民議会員に選出される(1993年まで議員)。同年後半にはフォール・ド・フランスの市長にも選出される(2001年引退)。
1956年、ソ連軍のハンガリー侵入の報を聞き、フランス共産党が人種差別について何ら方策をとらないことにも失望していたセゼールは「モーリス・トレーズへの手紙」を書き離党する。二年後にセゼールはマルティニクに進歩党Parti Progressiste Martiniquais(PPM)を創る。
60年代以降は詩作から劇作へと創作の重点を移している。

21世紀

2006年にエメ・セゼールは現内相(2006年当時)であったニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)からの面会要請を拒絶している。これは同相が『フランス植民地主義の肯定的側面を認める』ことを歴史教科書に記載する法を採択させたからと考えられている。

エメ・セゼールはすでに政界から引退(議員職、市長職ともに)しているが、マルティニークの重要人物として避けることができない人物となっている。

終わり

2008年4月17日、Fort-de-France(マルチニーク Martinique)で逝去

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