エンストローム論文

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エンストローム論文

えんすとろおむろんぶん

エンストローム論文エンストロームろんぶん)とは、2003年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の研究者ジェームス・エンストローム (James E. Enström) とニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の準教授ジェフリー・カバット (Geoffrey C. Kabat) により、専門家による査読を経ない英医学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表され、「環境たばこ煙曝露による虚血性疾患・肺がんとの関連性は一般に考えられているより小さいかもしれない」と結論づけたが、連邦裁判所から「大衆を欺く目的で科学に操作を加えた詐欺行為」とされた問題論文である。[1]

著者がたばこ会社から研究資金を受けており、利害からの中立性に問題があることや、この研究自体に、曝露群の誤分類などの統計上の瑕疵があり、科学的妥当性に問題があることなど、疫学研究として「致命的な欠陥」が発表当初から指摘されていた。そのため、受動喫煙の影響を評価する最新の諸論文についての総説からも削除されるなど、学界からの評価は低い。しかし時に喫煙規制に反対する非専門家たばこ産業関連者によって「科学的根拠」として言及される。

◎発表の経緯と反応

この論文は、英医学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表される以前に、統計上の瑕疵のため、専門家が査読する別の学術誌への論文掲載を却下されていた。

この論文が発表された際、この論文を1面記事で伝えたガーディアン紙など英各紙は、エンストロームたばこ会社から研究資金を受けていることを指摘、「無害性を強調し過ぎているきらいがある」との英国専門家のコメントを紹介している。なお、この研究の政治的な中立性や、研究そのものの科学的な妥当性に関し、米国ガン協会 (ACS) などによる批判が、発表当初から存在していた。

そして2006年、たばこ会社による詐欺事件裁判判決の中で、本論文は、たばこ会社による科学操作の証拠とされた。

◎科学的妥当性の問題

論文は、発表直後から疫学専門家からさまざまな批判を浴びた。「曝露群」「非曝露群」の比較ではなく「配偶者タバコ煙に曝露された非喫煙者女性」と「他のタバコ煙に曝露された非喫煙者女性」の比較であること、他の大規模なコホート研究と結果がなぜ食い違っているのか説明のないこと、年齢調整の方法などに瑕疵をもつ、などの指摘である。主要な指摘の詳細は以下。

○ハックショウの指摘

ロンドン大学のアラン・ハックショウ (Allan Hackshaw) は国際がん研究機関 (IARC) の、受動喫煙についてのワーキンググループの代表である。

エンストロームの研究は、僅か177の症例しか扱っておらず、これまでの受動喫煙についての研究全体(46研究、6257症例)のメタアナリシスに組み込んでも、1.24倍のリスク比(95%信頼区間は1.14から1.34)が、1.23倍となるだけで、従来の受動喫煙に関する研究から得られた結論にはほとんど影響しない。

また、エンストロームが扱ったカリフォルニアのデータでは、「1959年の時点での喫煙男性の配偶者(非喫煙)」を「喫煙男性の配偶者(非喫煙)」と捉えているため、研究終了した1998年までの間に「禁煙した男性の配偶者(非喫煙)」も「喫煙男性の配偶者(非喫煙)」に含めており、結果的に「非喫煙男性の配偶者(非喫煙)の集団」と「喫煙男性の配偶者と、禁煙した男性の配偶者(非喫煙)の集団」を比較していることから、「喫煙男性の配偶者(非喫煙)の集団」と「喫煙男性の配偶者(非喫煙)の集団」を比較するよりも、両者の間の肺がんの発生率の差が過小となり、受動喫煙と肺がんとの関係を覆い隠してしまっているものと考えられる。1959年から1998年までの間に喫煙者率は69%から28%まで低下している。

○ヴァイディアの指摘

ロンドン大学のジャヤント・ヴァイディア (Jayant Sharad Vaidya) によれば、カリフォルニアでは1990年に公の場所が禁煙になっているが、それまでの研究期間(概ね4分の3の期間)「非喫煙男性の配偶者(非喫煙)」も職場などにおいてタバコ煙に曝露されていたことが考慮されていない。

公の場所が禁煙になる以前の研究期間は、喫煙男性の配偶者(非喫煙)のうち就業者は、家庭においてタバコ煙に2時間から4時間晒され、職場において8時間から10時間タバコ煙に晒されることになる。これに対し、非喫煙男性の配偶者(非喫煙)のうち就業者は、家庭においてタバコ煙に晒されないが、職場において8時間から10時間タバコ煙に晒されることになるため、エンストロームが比較した集団は、一日に「8時間曝露」と「10時間曝露」の差しか現れない。

従来の説の通り、受動喫煙が30%リスクを高めるとしても、両集団の差は5%程度にしかならないため、エンストロームの用いた「曝露群」と「非曝露群」の区分では、疫学研究としてはっきりとした結論を出すことは困難である。

○クリチェリーの指摘

リバプール熱帯病学校のジュリア・クリチェリー (Julia Critchley) は、これまでの多くの研究を総括するメタアナリシスにおいて、受動喫煙と肺がんについての因果関係は確立されているとする。

エンストロームは、喫煙と受動喫煙因果関係を否定するような研究は世に出にくいかもしれないとしているが、大規模な前向きコホート研究は結果がどうであれ、発表されやすいものであり、それがエンストローム論文がブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表された大きな理由である。

また、大規模なコホート研究は研究期間が長期に亘るため、途中においてデータの欠落や誤分類が発生しやすい等の問題を抱えているが、エンストローム等は他の大規模なコホート研究と自らの研究がなぜ食い違っているのか説明せず、単に自らのコホートが大規模だから、結果も頑強であると主張しているのみである。

○トゥンの指摘

アメリカがん協会・疫学と監視研究のマイケル・トゥン (Michael J. Thun) によれば、アメリカがん協会の見解として、エンストロームの結論に同意しない。

エンストロームが利用したカリフォルニア州でのコホート研究のデータは、アメリカがん協会が、がん予防研究の一環として、能動喫煙の害を調査する研究目的により得たものであり、受動喫煙の害を評価するためのデータを十分に集めていない。そのためエンストローム論文は、他の専門家も指摘するように、曝露群の誤分類という致命的な欠陥を抱えている。

エンストロームが比較したのは、研究の開始時点において「喫煙男性の配偶者(非喫煙)」と、「非喫煙男性の配偶者(非喫煙)」であったが、調査対象となった人々は1972年から1998年の間、追跡されておらず、研究期間中において、禁煙、離婚、死別等の要因によってタバコ煙への曝露状況が変動しても一切考慮されていない。

また、1999年にこれらの人々を再調査した際、研究の開始時点での調査対象群うち追跡できたのは2%のみであった。

なお、1950–1960年代には、アメリカ人は誰もが受動喫煙に曝露されており、エンストロームは「配偶者タバコ煙に曝露された非喫煙者女性」と「他のタバコ煙に曝露された非喫煙者女性」を比べているに過ぎない。

○ヘドリーらの指摘

香港大学のヘドリー (A. J. Hedley) らは、エンストローム論文においても、慢性閉塞性肺疾患 (COPD) による死亡リスクは、1.65(95パーセント信頼区間で1.0-2.73)となっており、この数値は、ほかの研究とも矛盾しないため、受動喫煙が呼吸器系に障害を与え、死亡率を高めていることを確認しているが、このことについてメディアは関心を払っていない、と指摘している。

○その他の指摘

年齢調整等についても、複数の専門家から問題点が指摘されている。エンストロームは上記の指摘に反論したが、自らの論文の欠陥(「曝露群」と「非曝露群」の大変な誤分類など)を補えるものではなく、最後は沈黙せざるをえなかった。[2]

◎利害からの中立性の問題

2000年8月2日にWHOたばこ産業文書に関する専門家委員会は、アメリカにおけるたばこ産業に対する訴訟において、たばこ会社の秘密文書が公開された結果、たばこ業界が秘密裏に資金を提供している、学会もどき、世論形成団体、ビジネス団体などを通じ、WHOのタバコ規制に対する妨害工作を行っていたこと、その活動が、たばこ産業界と陰で資金的につながりのある国際的な科学者達に強く依存していた旨を報告している。(たばこ産業による喫煙擁護戦略も参照)

このような背景があり、エンストローム論文は2003年に発表されたものであるが、エンストローム氏がたばこ会社から研究資金を受けており、この研究自体が曝露群の誤分類などの統計上の瑕疵によって、恣意的とも受け取れる程に受動喫煙によるリスクが過小となる方向性での評価を行っていることから、その政治的な中立性は極めて疑わしいものとなっている。



○著者とたばこ産業とのつながり

エンストロームは本論文で、研究に対して「他から資金を援助してもらえなかったため」たばこ産業からやむなく研究資金を受け取っているとしている。実際、エンストローム1975年からたばこ産業に資金援助を求め始め、1992年に最初の研究資金を受領している。しかしそれ以上に、同氏はたばこ産業において、論文検討・研究資金援助提案に意見する専門家顧問として、たばこ産業から報酬金を受け取るなど、積極的な関与を行っていることが後に明らかになった[3]。

カバットは、昨年(2002)までたばこ産業から資金を受け取ったことがない、と本論文には書かれている。しかし、フィリップ・モリス社が資金援助する団体の代表者との共同研究を行うなど、たばこ産業との継続的なつながりを持っている。



◎その後の利用

前述のように他の多くの大規模コホート研究と異なる結果を主張する論文である。学界では上記のような致命的な瑕疵の指摘があるため、受動喫煙の影響に関する最新の64論文を評価した709頁にわたる詳細な総説「2006 Surgeon General's Report—The Health Consequences of Involuntary Exposure to Tobacco Smoke」からも削除されるなど、学界からの評価は低い。このように本論文は学術的価値よりも宣伝道具としての価値があり、非専門家向けの場・メディアで、取り上げられることがある。

日本たばこ産業は、平成17年11月8日に行われた「厚生科学審議会地域保健健康増進栄養部会」において参考人として出席して33頁の資料を提出、致命的瑕疵に言及せず、第25頁に「受動喫煙の影響が統計的誤差の範囲内」と紹介している。

小谷野敦は自著『禁煙ファシズムと戦う』の中で本論文を紹介し、喫煙規制に反対する根拠のひとつとしている。

たばこ会社による詐欺事件として

1999年から米国政府は、2800億ドルという史上最大額の詐欺の件で、フィリップ・モリス等の9つの大手たばこ会社に対する訴訟を行っていた[4]。その公判の中で、著者のエンストロームたばこ会社とのやりとりの内容が、次々と明らかにされていった。

そしてついに2006年8月、公判は終わった。グラディス・ケスラー連邦裁判官は、約1700頁の判決文の中で、「タバコが無害であるとの主張に合うよう、たばこ会社は科学を操作した」と批判。その判決文によると、たばこ会社は味方になる「科学者」を見つけ、タバコ会社関連団体から資金を提供し、巨額の報酬を払い、その科学者たばこ会社の関係を隠蔽していたという。[5]

ここでカリフォルニア大学エンストロームは、まさにその「科学者」として名指しされた。特にケスラー裁判官は、受動喫煙の健康への影響に関する科学研究を不正に変える、たばこ会社の4つの計画に言及した。そして、エンストロームの研究論文たばこ会社との通信文が、大衆を欺く目的でたばこ会社が科学に操作を加えた証拠である、とした。

これに対してエンストロームは、「誤った内容を発表しても、詐欺ではない」と反論している。 翌9月初めに米国がん協会(エンストロームはこの協会のデータを研究に利用した)は、カリフォルニア大学理事に対し、エンストロームを科学的根拠を不正に発表したことで非難する、との書信を送っている。 カリフォルニア大学のブラム理事長は、「フィリップ・モリスが売上げを伸ばすため、わが大学の名前とエンストロームの名前を利用した」と述べている。

エンストロームは、カリフォルニア大の研究者としてはとどまれたものの、教授の地位を失った。給料も大学から支給されなくなっている。(参考文献[6][7])



◎参考文献

[1]^ Enstrom, J. E.; Kabat, G. C. (2003). "Environmental tobacco smoke and tobacco related mortality in a prospective study of Californians, 1960-98." BMJ 326: 1057. PMID 12750205. DOI: 10.1136/bmj.326.7398.1057.

[2]^ Enstrom, J. E.; Kabat, G. C. (2003). "Misleading BMJ USA editorial." BMJ 327: E266–E267. PMID 14684661. DOI: 10.1136/bmj.327.7429.E266

[3]^ LA Bero, S Glantz, M-K Hong. The limits of competing interest disclosures. Tobacco Control 2005;14:118-126

[4]^ Civil Action No.99-CV-02496(GK)

[5]^ DEFENDANTS DEVISED AND EXECUTED A SCHEME TO DEFRAUD CONSUMERS AND POTENTIAL CONSUMERS OF CIGARETTES IN MOST, BUT NOT ALL, OF THE AREAS ALLEGED BY THE GOVERNMENTたばこ会社による巨額の詐欺事件裁判での判決文 (エンストローム論文に関係のある節)

[6]^ Richard C. Paddock. UC to review the tobacco industry's funding of research. Los Angeles Times, 2007-03-28.

[7]^ PD Thacker. Inside Higher Ed, February 8, 2007.

Woolf, S. H. (2003). "Tobacco money, the BMJ, and guilt by association." BMJ 327: E236.

http://bmj.bmjjournals.com/cgi/content/full/326/7398/1057