オールコック

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オールコック

おーるこっく

ラザフォード・オールコック(Sir (John) Rutherford Alcock)。

英国軍医外交官(1809年〜1897年)

ロンドン近郊に生まれ、父の影響によりグスリーに師事し、外科医となる。アゾレス諸島への従軍外科医となったのを皮切りに、カルリスタ戦争*1へも従軍(1834-37)。この功績により、軍医副総監にまで昇任。

しばらくは国内に留まっていたが、1843年に結婚すると、妻を連れて中国アモイ(厦門)へ渡り開業。このときに、在アモイ英国領事館の一等書記官となったのが外交官人生のはじまりとなった。その後、福州・上海・広東の総領事を経て、1858(安政5)年11月に初代註日総領事に就任し、翌年5月に江戸へ着任。

ヒュースケン殺害事件での葬儀同行、四国公使館の江戸退去、富士山への外国人としての初訪問など江戸幕府に対してやや圧迫的な態度をとり、親和的な米国註日総領事ハリスとは政策面で対立したが、第一次東禅寺事件では暗殺未遂があるなど危機を迎えた。11月に公使に昇任し、註日外交団のリーダーとなる。

1862(文久2)年賜暇で帰国中に、外相と遣欧使節竹内保徳との間の開市開港の延期を認めるロンドン覚書調印を斡旋、64(元治元)年1月に日本に帰任。

萩藩(長州)の下関海峡封鎖幕府横浜鎖港提議などに対抗し、四国連合艦隊下関砲撃を敢行して萩藩を屈伏させ、幕府に生糸貿易制限の解除をさせた。しかし、11月下関遠征について本国政府から召還されて帰国、翌年清国公使に転任し、1871年までその任にあった。

幕末外交史の貴重な資料として、『大君の都』(1863)がある。

*1スペインで1833-39年に行われた内戦。国王フェルナンド7世の弟ドン・カルロスDon Carlos 1788-1855を擁するカルリスタCarlistasが摂政マリア・クリスティナMaria Christina de Borbón 1806-78 に対して王位継承を迫ったもので、最終的にカルロスが仏へ亡命後、エスパルテロ将軍 Baldomero Espartero 1793-1879 が摂政マリア・クリスティナを失脚させ、一時的に軍事独裁政権を作って終結した。