オットー・クレンペラー

音楽

オットー・クレンペラー

おっとーくれんぺらー

Otto Klemperer (1885-1973) ユダヤドイツ人 指揮者

2mを超える長身から「大鷲」(ピーター・ヘイワース)を思わせるような指揮ぶりから、ドイツ音楽の偉大な精神を表現するかのような荘厳、雄大な音楽を繰り広げた。しかし、若い頃から現代音楽作曲家とも交流があり、ヤナーチェクシェーンベルクヒンデミット、クルト・ヴァイル、ストラヴィンスキーなどの、世界初演ドイツ初演などをしている。晩年EMIとの一連の録音などにより名が知れ渡る以前までは現代音楽専門家として紹介されていたころもあった。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとの一緒に映っている写真が2枚残っており、ウィリーが190cm以上あったことからしても本当に背が高い。しかも1929年で一緒に映っているブルーノ・ワルターアルトゥーロ・トスカニーニエーリッヒ・クライバーが160cmほどで並んでいて2人が別格に高いことがわかる。

師であるグスタフ・マーラー同様に作曲活動も行い、6つの交響曲、9つの弦楽四重奏曲、「メリー・ワルツ」などがある。また自己が愛するメンデルスゾーン交響曲第3番「スコットランド」のコーダを種々の資料などから、作曲家が満足しておらず改変する権利を有するとし第二主題を使用した自作した。

年譜

1885年 5月14日ドイツ領ブレスラウに生まれる。

フランクフルト・アム・マインの高等音楽院、ベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院とシュテルン音楽院(ワルターと同じ)で学ぶ。

1906年 オスカー・フリートの代役として、ベルリンでマックス・ラインハルトの監督した「天国と地獄」の指揮でデビューする。

1907年 グスタフ・マーラーの推薦状によりプラハドイツ民族劇場の楽長及び合唱指揮者になる。

1910年 マーラーの推薦でハンブルク市立劇場の楽長となる。

1927年 ベルリン共和国広場の国立第二歌劇場(クロール歌劇場)の音楽総監督および指揮者となる。1931年にクロール劇場が閉鎖されるまで、このころが新即物主義者としての活躍である。

演出と指揮を手がけたのは「フィデリオ」「ドン・ジョバンニ」「オイディプス王」「マヴラ」「ファルスタッフ」指揮をしたのは「さまよえるオランダ人」「今日のニュース」「魔笛」「オレストの生涯」「幸福な手」「往復」「フィガロの結婚」と現代音楽を紹介したりなど様々な実験的な試みができた時代である。

1931年 ベルリン、ウンター・デン。リンデン国立歌劇場指揮者となる。

1933年 ナチス政権誕生、国立歌劇場を解職され、ナチスに追われるようにスイス亡命ロサンゼルスフィルハーモニー指揮者となる。ロサンゼルスシェーンベルクと交遊。

1935年 アメリカ亡命ロサンゼルスに居を構える。

1936年 本人のインタビューによればトスカニーニの後継としてニューヨーク・フィルハーモニックから依頼があったらしい。結局、後任はバルビローリ。ちなみにトスカニーニの手紙にフルトヴェングラーを推薦する手紙があったことは有名。

1937年 ピッツバーグ交響楽団を創設、指揮にあたる。後任にフリッツ・ライナー

1938年 脳腫瘍の手術を受け、演奏活動を中断する。

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1946年 欧州へ帰還。アメリカは本人にとって居心地の良いものではなかったそうだ。

1947年 ブダペスト歌劇場指揮者となる。1950まで。

1951年 モントリオールの空港で氷に滑り入院。マッカラン・ウォルター法により1954年までアメリカに本人曰く幽閉同然の身となる

1954年 スイスチューリッヒに居を構える

1955年 EMIプロデューサー、ウォルター・レッグに招かれ、ロンドンフィルハーモニー管弦楽団と演奏する。

1964年 レッグの突然のEMI離職とフィルハーモニア解散により、ロンドンのニューフィルハーモニア管弦楽団合唱団が創られ、総裁および指揮者に就任する。

1973年 7月6日チューリッヒで死去。