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オットー・フォン・ビスマルク

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オットー・フォン・ビスマルク

おっとーふぉんびすまるく

Otto Eduard Leopold von Bismarck (1816年〜1898年

プロイセン王国首相外相(1862年〜1890年)、ドイツ帝国初代宰相(1871年〜1890年)。

ドイツ帝国成立まで

ユンカーの家に生まれる。大学では法学を学び、下級官吏となるが家業を立て直すために辞職、事業に成功する。

1849年には下院議員に当選、さらに1851年ドイツ連邦議会プロイセン代表に選ばれてその状況を実地に検分。さらにロシア大使フランス大使を歴任、識見を広げる。

1862年、軍拡を望むヴィルヘルム1世によって首相に起用され、議会で有名な演説(後掲)を行う。結果として鉄血宰相と呼ばれるようになり、その政策は鉄血政策と呼ばれるようになった。

ビスマルクは、軍事力を強化するだけでなく、外交関係でも辣腕を振るい、ロシアイタリアと接近するともに、オーストリアと同盟を結ぶ。この外交資産を背景に1865年デンマークと戦争して、シュレスヴィヒ・ホルシュタインを獲得する。

この戦争の成果を巡ってオーストリアと対立が深まると、今度は1866年に普墺戦争を起こしてオーストリアを破る。講和条約では寛大な条件を提示してオーストリアに恩を売ることに成功する。

1867年にこの戦勝を背景として北ドイツ連邦を成立させ、ドイツ統一にまた一歩近づいた。ドイツ統一への動きに危機感を抱いたナポレオン3世が介入しようとすると、逆にビスマルクはエムス電報事件を作り出し、普仏戦争に持っていってしまう。フランス軍皇帝自身が捕虜となる大敗北を喫し、結果としてプロイセン主導でドイツ統一がなされる原因となった。

プロイセン軍はパリを占領、ヴェルサイユ宮殿プロイセン王ヴィルヘルム1世が皇帝として戴冠、22の君主国と3つの自由市からなるドイツ帝国がここに成立した。

ドイツ帝国成立後

帝国宰相となったビスマルクは内政面においては統制を強化するため、カトリックに対して文化闘争を行い、社会主義弾圧法を制定する。社会主義者の基盤を弱めるために社会保障制度を整備することまで行った。

対外的には1873年に三帝同盟を、1882年三国同盟を結び、1887年には二重保障条約(独露再保障条約)を結ぶ。一方では1878年にベルリン会議を開催、「公正な仲裁人」として列強の利害の調整にあたった。これらはフランスの復讐心を警戒してのものであり、ほどほどの緊張感を保ったままの現状維持を継続することでフランスを封じ込める狙いがあった。

だが、ヴィルヘルム1世の死後、フリードリヒ3世を経て即位した新帝ヴィルヘルム2世はビスマルクへの信任を欠いたため、たびたび衝突、ついに1890年ビスマルクは解任される。

ビスマルクは自領に引退、1898年に亡くなった。

その後

ドイツ帝国憲法には重大な欠陥があった。条文中の「皇帝は」という部分はすべて「皇帝及びビスマルクは」と解釈することで初めて機能するようになっていた。ビスマルクを欠いた帝国は、皇帝ヴィルヘルム2世を掣肘する手段を持たなかった。そして、英国を敵に回しての、破滅的な植民地獲得競争と海軍拡張競争へと進んでいく。さらには二重保障条約の更新すら拒否してロシアと敵対し、ついには英仏露の三国協商を成立させてしまう。ビスマルクの最大の悪夢、ドイツ包囲網の形成だった。行き着く先には第一次世界大戦が待っていた。


言葉

「現在の大問題*1は演説や多数決ではなく、鉄と血によって解決される」(就任後、議会での演説において)

「人が一番嘘を付くのは、狩りの後と戦争の最中と選挙の前だ」

「政治とは可能性の技術であり、関係の科学である*2

「法はソーセージと似ている。(どちらも)作る過程は見ない方がよい」

「愚者は経験に学ぶ。賢人は歴史に学ぶ」

「大国ノ利ヲ争フヤ、己ニ利アレバ、公法ヲ執ヘテ動カサズ、若シ不利ナレバ、翻スニ兵威ヲ以テス」(1873年、岩倉使節団を招いての宴席で*3

*1ドイツ統一を指す

*2:一般には「政治とは可能性の芸術である」として知られている

*3伊藤博文が「東洋のビスマルク」と自称したのはこのときの対面でビスマルクに心酔したからとされる