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ガブリエル・バティストゥータ

(スポーツ)
がぶりえるばてぃすとぅーた

Gabriel Omar Batistuta
アルゼンチンのサッカー選手。ポジションはフォワード。
1969年2月1日生まれ、サンタ・フェ州リコンキスタ出身。身長185センチ、体重73キロ。
ニックネームは獅子王、バティ。

クラブ歴

1988-1989
ニューウェルズ・オールドボーイズ(アルゼンチン)
1990
CAリーベル・プレート(アルゼンチン)
1990-1991
ボカ・ジュニオールズ(アルゼンチン)
1991-2000
ACFフィオレンティーナ(イタリア)
2000-2003
ASローマ(イタリア)
2003
インテルナツィオナーレ・ミラノ(イタリア)
2003-2005
アル・アラビ(カタール)

代表歴

1991年 コパ・アメリカ 優勝
1994年 コパ・アメリカ 優勝
1994年 FIFAワールドカップ・アメリカ大会 ベスト16
1998年 FIFAワールドカップ・フランス大会 ベスト8
2002年 FIFAワールドカップ・日韓大会 グループリーグ敗退

経歴など

1990年代、マラドーナの去った後のアルゼンチン代表のスター。イタリア・セリエAで活躍したストライカーである。打点の高い迫力あるヘディング、しなやかな全身のしなりから生み出される強烈なシュート。チャンスを見逃さない得点感覚、まさにストライカーと呼ぶにふさわしいプレイヤーである。

9歳の時、自国アルゼンチンで開催された1978ワールドカップでマリオ・ケンペスの華麗なゴールを見たことが、バティとサッカーとの出会いだった。しかし、彼はそのままプロを目指したわけではなく、医者になって人々の命を救いたいという夢をもっていた。遊びとしてのサッカーはしていたものの、勉強に熱心な少年だった。

ところが、15歳になった頃、地元コンキスタの少年クラブチームでプレイするようになって、自分の力が周囲の少年たちより優れていることに気付き、大人たちからも賞賛されるにつれ、徐々に医者よりサッカー選手を目指す気持ちになっていく。
18歳の時、プレイヤーとしての自分の力をはかろうと、国内のクラブチームであるニューウェルズ・オールドボーイズの入団テストを受けた。プロとしてデビューするには遅すぎるにもかかわらず、長身を生かしたプレイを随所に見せ、クラブの首脳陣とコーチをうならせ、合格してしまった。


1988年、ニューウェルズ・オールドボーイズのジュニアチームからプロとしてのスタートを切ったバティストゥータは、まもなくトップチームに昇格。1989年のシーズンは新人にもかかわらず、ゴールを量産して国内チームの注目を浴びた。そして弱冠19歳にして、南米のNo.1クラブを決するリベルタドーレス杯で優勝を経験した。

翌1990年、リーベル・プレートへ移籍した。だが、当時の監督は現代表ダニエル・パサレラ。監督との確執が伝えられ、たったの7試合出場しただけでトレードを志願。シーズン途中でボカ・ジュニオールズに移籍した。
1991年、ボカでの19試合で11ゴールを叩き出し、22歳でアルゼンチン代表に選抜された。この年、チリで開催されたコパ・アメリカで大活躍。7ゴールを奪い、そのどれもがゲームを決定づける重要な局面での得点で、得点王・大会MVPに輝いた。またアルゼンチンには約30年ぶりの優勝という栄冠をもたらした。


この大会が彼の名を世界に知らしめた。各国の名門クラブからオファーが相次いだ。最も熱心だったのが、イタリアのフィオレンティーナである。「アズーリの至宝」と呼ばれたロベルト・バッジョを資金難からユヴェントスに放出して以来、下位を低迷していたフィオレンティーナはバティこそがクラブの救世主となることを確信していたのである。
バティは期待に応え、バティ・ゴールを量産。1990-1991シーズンに27ゲームで13ゴールをあげ、1991-1992シーズンには32ゲームで16ゴールをあげた。フィオレンティーナのサポーターにバッジョを忘れさせ、自らが「アイドル」となることに成功した。イタリアのマスコミから稲妻バティのニックネームを付けられた。
しかしその活躍とは裏腹にチームは低迷していた。1992-93シーズンに起こったチーム内での内紛によって、やる気をなくし、ついにセリエBに降格してしまった。マスコミは翌シーズン以後のバティの去就に注目したが、予想に反して彼はチームに残留することを発表した。このことにより、ティフォージの信頼をより一層深め、フィレンツェの街に銅像が建つほどの英雄視された。
1993-94シーズン、セリエA復帰だけを考えてバティゴールを量産。バティの姿に刺激されたかのようにチームは活気づき、あっという間にセリエA昇格を決める。昇格直後の1994-1995シーズン、26ゴールを量産してセリエA得点王に輝く。そして1994年、コパ・アメリカでも再びアルゼンチンを優勝に導き、史上初の2連覇をもたらしたのである。


1994年、ワールドカップ・アメリカ大会。17歳の時に見た雲の上の存在・王者マラドーナとワールドカップのフィールドに立つ。だが、不幸にもマラドーナのドーピング事件によりチームは精神的に崩れてしまい、決勝トーナメント2回戦でルーマニアに敗退してしまう。
だが、セリエAでは相変わらずの活躍ぶり。94年11月27日、第11節対サンプドリア戦、元ボローニャのエンツォ・パスクッティが持っていた10試合連続ゴールの記録を破り、セリエA新記録となる11試合連続ゴールを達成した。


1998年ワールドカップ・フランス大会の南米予選では最初こそ出場していたが、途中、チームの再建のために国内のメンバーで固める方針をとったために外れたこともあったが、本戦出場が決定。最終戦のコロンビア戦では呼び戻され、その後のテストマッチではクレスポの怪我に伴い完全にレギュラーとして定着した。
そして本大会では、得点王の期待がかかった。第1戦の日本戦で見せたバティ・ゴール&ウィンクで多くの日本人ファンを獲得。続いてジャマイカ戦ではハットトリックを達成し、マラドーナばりのカメラ目線のゴール・パフォーマンスを見せる。死闘となったイングランド戦でPKを叩き込むも、5得点にとどまり、次第に調子を落として行った。チームも準々決勝で敗退。

2000年、9年もの長きに渡り在籍したフィオレンティーナからASローマに移籍。そこで20ゴールという活躍を見せ、念願のスクデットを獲得した。だが翌シーズンには出場機会が減り始め、2003年、怪我でクレスポを欠いたインテルがその代役に獲得。だが、1シーズンでカタールのアル・アラビへ移籍する。

2002年のFIFAワールドカップ・日韓大会にもエースストライカーとして出場し、ナイジェリア戦で1ゴールを決めるも、チームはグループリーグ敗退。その直後、代表からの引退を発表した。

2005年に現役引退を表明。

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