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サウド家

(一般)
さうどけ

サウード家とも。サウジアラビアの現王家。

略史

家祖の名前は当然サウード。ナジド地方のデルイーヤの領主で、1725年に亡くなっている。その後、彼の息子のムハンマド・ビン・サウードがワッハーブ運動と結合してアラビア半島内で勢力を拡大。後継者にも恵まれ、19世紀初頭にはアラビア半島をほぼ統一していた(第一次ワッハーブ王国)。
出る杭は打たれる。1811年にオスマン帝国はエジプト太守のムハンマド・アリー率いる軍を派遣して、サウード家の支配領域を攻撃した。
ムハンマド・アリーの手によって近代化されたエジプト軍はアラビア半島深く侵攻し、デルイーヤを攻囲、占領してサウード家の主要メンバーを捕らえた(第一次ワッハーブ王国の滅亡)。

が、難を逃れていたサウード一族の一人、トルキー・ビン・アブドッラーが1824年にはデルイーヤを奪回し、さらにリヤドをも制圧して勢力の再建に乗り出す。彼の息子ファイサルも引き続き勢力の拡大を図り、再びアラビア半島内で大きな勢力を築いた(第二次ワッハーブ王国)。
ファイサルの死後に後継争いからサウード家は衰え、代わってラシード家の勢力が拡大した。ラシード家に圧迫され、サウード家はリヤドのみを領有する状態となっていた。
ファイサルの息子アブドルラハマンはラシード家に反旗を翻したが破れ、1891年から息子アブドルアジズとともに亡命生活へと追い込まれた。
(つづく)

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