ロシア料理店。
ころから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる”pui frisait la cinquantaine“([#割り注]五十歳に近い人物[#割り注終わり])である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっき…
リのために、ぱったり引っかかってしまったが、僕なら、十五万ルーブリくらいせしめて、あの後家さんと結婚してさ、ペテルブルグに石造の家でも買ってみせるよ』と言うんだ。そして、ホフラコーヴァにごまをすってる話をしてね、あの女は若い時からあまり利口じゃなかったが、四十になったら、すっかり馬鹿になってしまった、っておれに話したよ。『だが、おそろしくセンチな女だよ。で、我輩はそこにつけ込んで、あれをものにする。そして、ペテルブルグへ連れて行って、そこで新聞を発刊するんだ。』こんなことを言いながら、穢らわしい淫らな涎をたらしていやがるんだ、それもホフラコーヴァにじゃなくて、あの十五万ルーブリの金に涎をたらし…
[#3字下げ]第六 おれが来たんだ[#「第六 おれが来たんだ」は中見出し] ドミートリイは街道を飛ばして行った。モークロエまでは二十露里と少しあったが、アンドレイのトロイカは、一時間と十五分くらいで間に合いそうな勢いで疾駆するのであった。飛ぶようなトロイカの進行は、急にミーチャの頭をすがすがしくした。空気は爽やかに冷たく、澄んだ空には大きな星が輝いていた。それは、アリョーシャが大地に身をひれ伏して、『永久にこの土を愛する』と、夢中になって誓ったのと同じ晩であった。おそらく同じ時かもしれぬ。しかし、ミーチャの心はぼうっとしていた、恐ろしくぼうっとしていた。さまざまなものが、いま彼の心をさいなんで…
棺の中を見つめた。なき人は胸に聖像をのせ、頭に八脚十字架のついた頭巾をかぶり、全身をことごとく蔽われたまま、じっと横たわっている。たった今この人の声を聞いたばかりで、その声はまだ耳に響いている。彼はまたじっと耳をすましながら、なおも声の響きを待ちもうけた……が、とつぜん身をひるがえして、庵室の外へ出た。 彼は正面の階段の上にも立ちどまらず、足ばやに庭へおりて行った。感激に充ちた彼の心が、自由と空間と広濶を求めたのである。静かに輝く星くずに充ちた穹窿が、一目に見つくすことのできぬほど広々と頭上に蔽いかぶさっている。まだはっきりしない銀河が、天心から地平へかけて二すじに分れている。不動といってもい…
けこの偉大なる真理をよけいに蔵しているのである。なぜなれば、彼らのうちでも金のある富農《クラーク》や百姓泣かせの連中は、すでに大多数堕落しているからである。これは主として、われわれの不注意、不行届きから起ったことである! しかし、神は自分の赤子《せきし》を救って下さるに相違ない、なぜならば、ロシヤの偉大はその謙抑に存するからである。余は空想の中にわが国の未来を見る。いや、もう現に明らかに見えるような思いがする。すなわち、最も堕落せる富者さえも、ついにはおのれの富を恥ずるようになる。すると、貧者はこのへりくだった態度を見て、その心持を理解して彼に譲歩し、悦びと愛をもってその美しき羞恥に答えるであ…