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シャルンホルスト

一般

シャルンホルスト

しゃるんほるすと

Gerhard von Scharnhorst(1755年〜1813年) 

ナポレオン戦争期のプロイセン王国の軍人。

1778年よりハノーファー軍に仕えた。この時期に軍事雑誌の編集者として活動するほか、軍事理論等に関する著作を行い、よく知られた存在となる。1793年にはネーデルラントヨーク公麾下の遠征軍とともに革命フランス軍と戦う。この時の経験も著しており、また、革命フランス軍の分析も行っている。

これらによってシャルンホルストの才は知られるところとなり、1801年には軍制改革を行うために招かれて、プロイセン軍に移る。

シャルンホルストは精力的に軍の改革に努めるが、あらゆる改革につきものの既得権益を守ろうとする反対派の抵抗などもあり、思うに任せられない状態に。そのままプロイセンナポレオンとの戦争に突入してしまう。

プロイセン軍は1806年10月14日のイエナ・アウエルシュタット?の戦いにおいて完膚無きまでに叩きのめされ、国土のほとんどを蹂躙される憂き目にあう。この戦役について、シャルンホルスト自身は次のように述懐している。

「我が軍の士官は指揮のなんたるかを知らなかった。なんらかの働きをしたものはあまりにも少なかった。多数の要塞は理由もなく降伏して高級将校たちの恥ずべき実態をさらけ出した」

なお、シャルンホルスト自身は戦争前から有為な献策を行っていたが、それらはことごとく退けられていた。が、アウエルシュタット後の退却中にブリュッヘルと出会って意気投合、さらにフランス軍に降伏する際に降伏文書に「弾薬払底のため」との一文を入れて名誉を守ることに成功している。

ティルジットの和約によってプロイセンの軍備は大きく制限されたが、同時にシャルンホルストが昇進して改革を進めるだけの背景を得ることともなった。

その後、ナポレオンロシア遠征の失敗と諸国民戦争の開始により、シャルンホルストも門下生とも呼ぶべき若手参謀らとともにプロイセン軍の中枢として参加する。が、緒戦のリュッツェンで戦傷を負い、その傷が元の敗血症が原因で亡くなった。