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ジューコフ

一般

ジューコフ

じゅーこふ

ゲオルギー・コンスタンティノヴィッチ・ジューコフ Georgi Konstantinovich Zhukov(1896年-1974年)

第二次世界大戦時の赤軍の将軍(元帥)。

概略

もともとは帝政ロシア竜騎兵として第一次世界大戦にも参加、戦功により下士官に昇進。

革命後は赤軍に参加。ノモンハン事変で戦い*1、その功績によりキエフ軍管区司令官に栄転。さらに参謀総長に進むが、スターリンと衝突して辞任。

だが、独ソ戦が始まると、ジューコフは危機的状況だったレニングラード軍管区に司令官として派遣される。軍事的手腕もさることながら、崩壊寸前だった士気を立て直すために厳格な軍律を適用*2して戦力の再建に成功する*3。つづいて、モスクワ前面に迫った中央軍集団を(冬将軍の助けを借りつつ)極東から輸送したシベリア師団の反撃によって撃退する*4

1942年には最高司令官代理に任命され、危機的状況だったスターリングラードの防衛にあたることになる。戦力をすりつぶす市街戦を継続しながらも、ジューコフドイツ第六軍を丸ごと包囲殲滅するという大反撃を計画する。

11月19日、ウラヌス作戦が発動され、弱体なルーマニア軍戦線をスターリングラードの両翼でソ連軍が突破、23日にスターリングラードを包囲下においた。1943年2月に第六軍は降伏して東部戦線の形勢は大きくソ連側に傾くことになる。ジューコフ自身も1943年1月18日に元帥に昇進している。

その後、バグラチオン作戦と引き続くドイツ本土侵攻作戦を指揮し、ベルリン一番乗りを果たす。

国民的英雄であり、西側でも声望があったことから、スターリンから警戒され、1947年にオデッサ軍管区司令官に左遷された。スターリンの死後は中央に復帰して1955年には国防大臣に就任した。核戦力を巡る対立からフルシチョフから解任されたが、フルシチョフ失脚後に名誉回復がなされ、1974年に死去。

ソ連史上最も人気のあった人物の一人であり、国葬には100万人が参列したと言われる*5

*1粛清されたトハチェフスキー元帥らの唱えたソ連版の電撃作戦である縦深理論をジューコフはここで用いて成果を挙げていた

*2:ばんばん銃殺刑でもなんでもやった、の婉曲表現

*3ジューコフは敗走状態の兵士たちを再び戦える部隊に作り変えることができた。敗走状態の兵士はいくらでもいたので、ジューコフが現れた場所には新しく師団単位で「戦力」が出現するのが常だった

*4スターリンモスクワが陥落するんじゃないかと本気で心配していたが、ジューコフはまったく気にせず12月に実施する反撃のことしか考えてなかったという話もある

*5:出典http://www.cdi.org/russia/johnson/7176-5.cfm