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ジョージ・マカートニー

(読書)
じょーじまかーとにー

(Lord George Macartney、1st Earl Macartney、1737年5月14日 - 1806年5月31日)
イギリスの外交官、植民地行政官。北アイルランドのベルファスト生まれのスコットランド人。

経歴

ダブリンのトリニティカレッジを卒業後、1764年にはロシアのペテルブルク駐在公使を務める。以後、英領カリブ諸島植民地知事、マドラス知事(英領インド)など植民地行政官を歴任。1776年に、男爵位(アイルランド貴族)1792年には伯爵位(同前)を受ける。
イギリスと中国の清朝との間で行われていた貿易は広州一港に限られていたため、1791年、マカートニーは前任のカスカートの病死で、貿易改善交渉のための全権大使に起用される。マカートニーはイギリス王ジョージ3世が派遣する、清朝皇帝乾隆帝の80歳を祝う使節団として派遣され、1792年9月にスピットヘッドからライオン号で本国を出発し、翌年7月に清へ到達。
イギリスからでは初の使節ということで歓迎され、9月に熱河離宮で避暑滞在中の乾隆帝に謁見する。華夷秩序に基づく中華世界において、周辺諸国からの外交使節は「皇帝の徳」を慕っての朝貢使節と認識され、マカートニーは、朝貢使節が皇帝に対して行う中国式の儀礼である三跪九叩頭の礼(三回跪き、九回頭を地に擦りつける)をするよう要求される。彼はこれを拒否するが、最終的には清側が譲歩する形でイギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着いた。だが貿易改善交渉、条約締結は拒絶され、帰国した。
坂野正高訳注で『中国訪問使節日記』(平凡社東洋文庫、初版1975年)がある。
帰国後は、イタリアでの任務やケープ植民地知事を歴任。1798年11月に健康を害し退職。ミドルセックスのチジック(chiswick)で69歳で亡くなった。

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