ドメニコ・スカルラッティ

音楽

ドメニコ・スカルラッティ

どめにこすかるらってぃ

Domenico Scarlatti (1685-1757)

ナポリアレッサンドロ・スカルラッティの六男として1685年に生まれる。ちなみに、この年には、J.S.バッハヘンデルも生まれている。

さて、1701年、ドメニコは父も勤めるナポリの宮廷オルガニストとしてキャリアを開始するが、アレッサンドロはドメニコをフィレンツェに送り、メディチ家に仕えさせようと画策した。しかし、この計画はうまくいかず、ナポリに戻ったドメニコは歌劇などを書き始める。

また、グローヴ音楽辞典の記述によれば、1705年、父に家族とともに送られたヴェニスで、ドメニコはヘンデルとはじめて知己を得たようだ。その後も、イタリアのさまざまな都市で活躍した後、ドメニコはポルトガルジョアン5世の宮廷に職を得る。彼の運命を決定づけた王女、マリア・バルバラとの出会いもここであった。

イタリアを離れて初めて、ドメニコは彼独自のスタイルを構築することに成功し、ポルトガル王室の人々の庇護のもとで王家の子弟用の教育作品などを書き始める。やがて、1729年、スペインに輿入れしたマリア・バルバラ王女に付き従ってマドリッドに移ったドメニコは、その地で生涯を終えた。彼の500曲を超える、ハープシコードのためのソナタの大半は、マドリッドで書かれた。マリア・バルバラは年齢と共に肥満し、演奏技巧は落ちてしまったが、それでもドメニコは彼女のために音楽を作り続けた。また、かの地の宮廷には、史上最高のカストラートファリネッリも滞在しており、ふたりは親交を結んでいたという。