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パラジャーノフ

映画

パラジャーノフ

ぱらじゃーのふ

セルゲイ・パラジャーノフ」も参照のこと。

Sergei Parajanov(「Serguei Parajanov」とも表記。パラジャーノフの伝記本を書き・伝記映画も作ったパトリック・カザルスなどによると)。

1924年1990年

ロシア旧ソ連グルジアトビリシに生まれたアルメニア映画監督

ハリウッドが急成長を遂げ、まさに「映像の世紀」となった20世紀に、「これ見よ」がしに民主的な表現方法の確立していった映画の有りかたに大いに疑問をもち、単に現況の実存人物たちの一過性の視聴覚刺激として(興収にも直結するような)「リーニーか、そうでないか」だけに留どまらない、一つの芸術として確立した映像表現を求めたアーチストでは、この人は傑出していよう。(ジガ・ヴェルトフ?やエスフィル・シューブ?、あるいはグレゴリー・チュフライ?はいいヒントにはなっても。)

民族意識だとか、言語学博物学そして記号学精神分析学の療法として登場してきた文化人類学マリノフスキーからレヴィ=ストロースに至るまで、人類massとしての「伝達すべきこと」をレポートし続けたが、その応用的成果が音楽ではバルトークだし、絵画ではジョアン・ミロだし、映画ではパゾリーニだった訳だが、このパラジャーノフは更に比類ない探究心でもってこれを進化させた。

少しそれっぽく脚色する人はあっても、これ以上の深みを湛えることはもはやあるまい。よってこの世で一番変わった映画だし、それはただ一過性の関心によって消費されるものではなく、最も意義のある異世界ファンタジーといえよう。

ジャン=リュック・ゴダールならばかなり近い手法を用いているけれども、ゴダールに前知識は不要なのと完く反対に、この人の場合、全く前知識なしで見るとエド・ウッドケネス・アンガー、あるいはナンセンス系のホラーよりも退屈で、不可解なものとなってしまう。

だが、本人が敢えて前口上するのと裏腹に代表作の『ざくろの色』なんてしっかりしたプロットをもち、かなりサヤト=ノヴァという詩人の伝記としてまともな時間軸を持ち、感覚的にも理解しやすいのは、もともとパラジャーノフという人がコラージュでも映画でも物造りをする際にとてもオーソドックスな観念でそれらを制御したからであるし、また、現代みられる版が後輩のセルゲイ・ユトケーヴィチという監督が再編集したためでもある。

その証拠に、極めて困難ながらも他に入手できる3作(『アシク・ケリブ』『スラム砦の伝説』『火の馬』)が、いづれも真っ当なプロットに裏打ちされた、無茶苦茶な連想ゲームを繰り広げたものではない、いわば聊かの退屈さによって証明されている。

いや奔放に連想も行うのだが、民族的に縁起的な小じんまりとしたものなのだ。美意識に基づくのかも知れないし、獄中から持ち越された強迫観念が科学性や文明の雑多さを拒絶したのかも知れないが、古来の多民族と仲良く付き合い、各民族の家宝を持ち来させる人柄は昨日・今日の付き合いや浅はかな信頼関係では無理だし、多言語だし、祭儀には研究成果を裏切って敢えて応用を演じさせさえしたが、不思議と非常に纏まりがある。

ゲオルギアの後輩には、晩年のタルコフスキーが「最高に尊敬する監督」と公言して憚らなかったオタール・イオセリアーニもいるが、何せ龍退治で有名な「聖ジョージ」の名をそのまま国名にした国家であり、陸上交易の要衝でもあり、ここでいう「龍」とはキリスト教にとっての邪宗門である土地古来の様々な伝承なのであり、祖霊であり、民族のアイデンティティなのであるから、ロシア辺境は非常に「イコン」だとかキリスト教に忠実で早くから高度な発達を遂げたように見えながら、反面、ケルトや魔術以上の深さに自分たちの真の信仰対象を沈めた訳だから、決して一筋縄で行くものではない。

今だにチベットアフリカだ、マヤだオルメックだ云ってるのは、怠慢以外の何物でもないのかも知れない。