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ピンク・レディー

アイドル

ピンク・レディー

ぴんくれでぃー

1970年代後半に日本を席捲した、MIE(現・未唯)こと根本美鶴代とKEIこと増田啓子(現・増田惠子)による女性アイドルデュオ

ほとんどの曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけている。

奇抜な歌詞を、露骨に性的なコスチュームで、奇怪な振り付けつきで踊る。歌謡曲世界がたどりついた「キッチュ」の最高峰と行ってよい。多くの女子小学生たちが、彼女たちの歌を振り付けつきでコピーした。

なお、アメリカにも、一時進出して枠番組を制作し、すぐ打ち切られたが、一部のアメリカ人にトラウマを与えたという。


静岡の私立常葉高校で同級生だった二人は、在学中に“クッキー”というフォークデュオを結成し、1976年2月にオーディション番組『スター誕生』(日本テレビ)の決勝大会で合格。同年8月2日、ピンク・レディーの名でデビューシングル「ペッパー警部」をリリースした。『スター誕生』出演時のイメージをガラリと変えたその奇抜な歌詞、大胆なコスチュームや振りつけは老若男女問わず人気を集めることになる。

1977年から1978年にかけて、「ウォンテッド」「UFO」(78年日本レコード大賞受賞)、「サウスポー」(78年日本歌謡大賞受賞)、「モンスター」と連続で100万枚のセールスを達成。同時に玩具などのキャラクター商品が続々と発売されるなど“PL旋風”は社会現象にまで発展した。1977年、「ウォンテッド」で『NHK紅白歌合戦』に初出場するも、翌年は新宿コマ劇場での盲学校の生徒たちを招いてのチャリティコンサート開催を理由に紅白出場を辞退、「価値観の変化」として話題を呼んだ。

1979年には「KISS IN THE DARK」で全米デビューし、日本人としては坂本九の「SUKIYAKI」(「上を向いて歩こう」)以来となる『ビルボード』誌のヒットチャート・トップ40入り(最高位は37位)を果たした。だが、このころから人気にかげりが見え始める。その後、所属事務所の脱税疑惑や、全米で放映された『PINK LADY SHOW』(NBC)の打ち切り(6回の放映予定が5回で打ち切りとなった*1)などが人気凋落に拍車をかけ、1980年9月にはついに解散を発表。翌年3月31日、後楽園球場で雨の降りしきるなかコンサートを行ない、ファンに別れを告げた。

しかし解散後もたびたび再結成し、1989年・1990年・2000年には因縁の『紅白歌合戦』にも出場。2003年6月からは2年間の期間限定ながら本格的に活動を再開、全国各地でコンサートを開催した。その間2005年1月には、かつての彼女たちの所属事務所T&Cの制作部長で、「ピンク・レディーの育ての親」といわれた相馬一比古が死去するというできごとがあったが、2人はその悲しみを乗り越え、同年5月27日、東京国際フォーラムで、2度目の「解散」コンサートを行なうにいたった。

*1:2004年に幻冬舎から刊行された増田惠子(KEI)の自伝『あこがれ』(ISBN:4344006763)によれば、NBCとの契約は7年間で、『PINK LADY SHOW』も6回分撮り終えたあとで4回分の依頼があったものの、KEIの強い希望により結局帰国することになったという。