フロンドの乱

社会

フロンドの乱

ふろんどのらん

La Fronde(仏)

ルイ14世即位後のフランス王国で発生した大内乱。1648年〜1653年。

リシュリュールイ13世の相次いだ死と、30年戦争終了の反動によって起きたと言える。

フランスにおける貴族の最後の反乱事件であり、鎮圧後はフランス絶対君主政体が確立されることとなる。

なお、フロンド?とは当時流行していた投石器に由来する名であり、パリ市民によってマザラン館への投石が行われたからだとも、どこでも反乱が頻発したからだとも言われている。

大きく前半と後半、「高等法院のフロンド*1」と「貴族のフロンド*2」からなる。

概略

フロンド前史

1643年のルイ13世の死により、幼少のルイ14世即位する。摂政には(外国人である)母后アンヌ・ドートリッシュが立ち、政治上の実権はリシュリューの後継者であるマザラン(これまた外国人)が握ることになった。鉄の如き手腕の持ち主リシュリュー王権を高めて貴族の力を抑えてきたが、マザランもこの路線を維持した。もちろん王の絶大な信任を得ていたリシュリューに比べれば、新任のマザランの方が対抗しやすそうにも思えるので、貴族たちの敵愾心は高まった。

この王権と貴族という伝統的な対決軸に加え、さらに高等法院に拠る法服貴族*3王権の対立も表面化しつつあった。


高等法院のフロンド

1648年1月、戦費調達のために新税の導入をマザランが決定すると、市民と高等法院はこれに反発。彼らは、新規課税にあたっては高等法院の許可を得ること等を求める決議を行い、やむなく王室もこれを受け入れる。

だが、8月20日のランスの戦いでの勝利によって戦争の帰趨が定まると、たちまちマザランは態度を豹変させる。彼は高等法院の中心的メンバーのメンバーを逮捕させる。これに憤った市民らが8月26日蜂起、ついに反乱が始まる。マザランも一度は妥協して逮捕者を釈放するが、ウェストファリア条約が結ばれて三十年戦争が終わると、いよいよ対決へと乗り出す。

1649年1月、王室は反対派の力の強いパリを離れて、サン・ジェルマンの離宮へと移る*4。これを護衛したのがランスの勝利者のコンデ親王*5であり、コンデはこの段階では王室側の軍事的支柱となっている。

さて、高等法院と貴族が連合して反乱を起こしたものの、彼らの利害は必ずしも一致しない。高等法院のメンバーは軍事的な経験をほとんど持たず、一方相手はフランス史上屈指の軍事的才能の持ち主たるコンデ親王である。これで勝てたらどうかしている。

さらに反乱に参加していた一部の貴族たちがスペインと手を結ぼうとしたのを見て、本来保守的な法服貴族たちは戦意を喪失してしまう。もともと既得権を握る富裕層である以上、反乱が拡大しすぎる事態なども望むところではない*6。戦況としては有利だった王室側も反乱の地方への波及を恐れて譲歩し、高等法院側の要求を受け入れて反逆の罪を問わないことで妥協が成立、ここに反乱はひとまず収まった。


貴族のフロンド

反乱鎮圧で最大の戦功を挙げたのはコンデ親王だった。彼はわずか21歳で全欧州に恐れられたスペイン・テルシオを撃滅するなど、赫々たる武勲の持ち主であったが、それ故に増長していたとも言われる。何にせよその功績は単なる一将軍の域を超えており、絶対王政的な立場からは放置し続けるのが危険なレベルに達していた。

ついでに言うと高等法院のフロンドの際にはコンデの弟が反乱軍の指導者となっていた等の事情もあり、マザランは1650年1月にコンデらを逮捕させる。が、これがさらなる反乱の火蓋を切ることになった。コンデの姉のロングヴィル公妃は反乱を扇動、これに王権に不満を抱く貴族らが合流し、ついでに名将テュレンヌまでもが反乱に加わる*7。流石のマザランもこれには参ってドイツ亡命、1651年1月にコンデ親王は解放される。

が、やはり反乱の宿命で利害は一致しない*8。パリ市民や高等法院と仲違いしたコンデは都落ちし、これに乗じてアンヌ・ドートリッシュがテュレンヌを寝返らせて再び王室が優勢となる。

コンデはスペインの支援を受けてパリへと攻め上り、ここでテュレンヌとの夢の対決が実現する*9。戦いは一進一退だったが、みんなが大嫌いなマザラン亡命から帰還していたのでコンデ待望論が起き、紆余曲折の末に1652年7月、コンデは再びパリに入る。

歴史は繰り返す。コンデはやっぱりパリと仲良くなれなかった。軍を率いてパリを離れたコンデはテュレンヌの攻撃を受け、ついにスペインへの亡命を余儀なくされる。

最後まで抵抗を続けたボルドー市も1653年7月に屈し、ここに反乱は終わりを告げた。


その後

反乱が鎮圧された結果、貴族と高等法院の力は削減され、王の権限が拡大し、フランスは絶対王政へと大きく前進する。その基盤の下、太陽王フランス王国を思うがままに動かしていくことになる。

スペインとの戦争はその後も続き、スペインの客将となったコンデとフランス軍を率いるテュレンヌとは、スペインネーデルラント*10周辺で丁々発止の戦いを繰り広げた。この戦争は1659年に終わり、コンデも許されて帰国する。

戦争終結を見届けたマザランは1661年に亡くなり、ここにフランス王国ルイ14世の親政に入る。


補足

なお、この反乱はいろんな陰謀とか裏読みとか深読みとか妄想とかの介在する余地が満載*11なので、文学作品の題材ともなっている。(ダルタニャン物語第二部「二十年後」等)

*1:Fronde Parlementaire

*2:Fronde princiere

*3:いわゆる帯剣貴族の対義語。売官によってその地位を得た富裕層が貴族化したもの。高等法院は本来は王権が貴族に対抗する基盤として整備したものだったが、この頃には法服貴族の根城となっていた

*4:このときのパリの蜂起への記憶が、後にルイ14世をしてヴェルサイユ造営へと向かわせたとも言われる

*5:コンデ公。王族の一人で稀代の名将。アンギャン公とも。後世からは大コンデとも呼ばれる

*6:この頃お隣のイギリスでは清教徒革命と国王処刑といった衝撃的な事態が展開されており、保守層が革命を警戒する一因となった

*7:ロングヴィル公妃の色香に迷ったとされる

*8:一致していたら反乱じゃなくて革命になってると思います。

*9:そんないいものじゃないと思います

*10オランダ独立後なので今のベルギーのあたりのこと

*11:ロングヴィル公妃とか、オルレアン公女とか、萌えキャラにも不足はない

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