プラッシーの戦い

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プラッシーの戦い

ぷらっしーのたたかい

Battle of Plassey(英)

七年戦争(第三次カーナティック戦争)中にベンガル地方の村プラッシーで行われた戦い。イギリスによるインド植民地支配を決定づけたとされる。言うなればインドにおける関ヶ原の戦い*1



ムガール帝国領のベンガル地方は、ナワーブ(太守)のアリーバルディー・ハーンによって事実上の独立勢力となっていた。彼はベンガルのみならずビハールとオリッサも支配していた。その死後、孫のシラージュ・ウッダウラは後を継いで太守となると1756年6月20日にカルカッタ*2を攻撃してイギリスのウィリアム要塞を占領する。要塞の一室に無理矢理押し込まれた英人捕虜は146人中123人が一夜にして死亡した*3

もちろん植民地支配というのはヤクザと同じで舐められたら仕舞いの商売である。怒り狂ったイギリス人は報復を誓い、マドラスからワトソン提督率いる艦隊とクライヴ率いる部隊を送り込み、1757年1月にカルカッタを奪回した。ついでに、反撃に現れた太守軍を奇襲で撃破して不平等条約を押しつけることに成功した。

すでに七年戦争は全世界で展開されており、イギリス側も手ぬるいことするつもりはなかった。クライヴはベンガルにおけるフランスの最大拠点シャンデルナゴルを攻撃、艦隊の支援を得て3月23日に占領した。

これに対して先の不平等条約に不満を抱くベンガル太守はフランスと接近、フランス東インド会社から砲兵隊などの援助を受けた。

一方のイギリス東インド会社も、4月23日にベンガル政権転覆を承認。太守の座を報償とする秘密工作の結果、6月5日、ベンガル軍の将の一人ミール・ジャーファルに内応を約させた。あとはそれを実行するだけである。

太守はフランスの支援によって5万の大軍を組織していたが、クライヴは手勢を率いて進撃、ベンガル首都ムルシダーバード近郊のプラッシーでこれと激突した。

6月23日の朝から戦いは開始されたが、ミール・ジャーファの裏切りが明らかになったことで太守軍は退却を余儀なくされ、敗北。

7月2日は太守は捕らえられ、ミール・ジャーファルが新しく太守に据えられた。

さらにイギリスは1760年には反抗的になったミール・ジャーファルを太守から引きずり下ろし、以後ベンガルを思うがままにしてゆくことになる。

*1:内応で決着とかも関ヶ原っぽい

*2:現コルカタ

*3:ブラック・ホールBlack Holeと呼ばれる