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マリー・ルイーズ

一般

マリー・ルイーズ

まりーるいーず

マリー・ルイーズ・ドートリッシュ Marie-Louise d'Autriche

マリア・ルイーゼ・フォン・エスターライヒ Marie-Louise von 遵ムsterreich

生没年 1791-1847

神聖ローマ帝国皇女オーストリア大公女 1791-1806

オーストリア皇女 1806-1847

フランス帝国皇后 1810-1814

パルマ女公 1816-1847

神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の第二子、次女としてウィーンシェーンブルン宮殿に生まれた。異母姉でフランツ2世の長女は1歳で夭折したので、マリー・ルイーズ皇帝の10人の子供たちの事実上の第一子として育てられた。

13歳の時に、神聖ローマ帝国終焉し、オーストリア帝国皇女となった。

彼女の少女時代は、オーストリアナポレオンとの戦争を戦っていた時代であり、しかも完膚なきまでに叩きのめされて、一時、帝都ウィーンも占領され、マリー・ルイーズを含む皇子皇女は帝国各地を転々と避難し、ウクライナまで逃亡したこともあった。

そうした経験から、ハプスブルク家の人たちは誰でもそうだったが、マリー・ルイーズナポレオンを強烈に敵視しており、悪魔と呼んでいた。

しかしナポレオンのフランス帝国とオーストリアの一応の和議がなった後、ナポレオンジョゼフィーヌと離婚した後の皇后として、オーストリア皇帝フランツ1世にマリー・ルイーズを差し出すよう要求した。

ナポレオンジョゼフィーヌと別れたのは、いつまでたっても子を成さないこの結婚を終わらせて、嫡男が欲しかったからからであり、マリー・ルイーズ皇后として望んだのは、ヨーロッパ随一の名門ハプスブルク家の縁戚となることで、権威を強めたかったからである。

マリー・ルイーズ当人は当初激しく難色を示したが、当時のオーストリアにはナポレオンの意向に逆らう力はなく、外相メッテルニヒ、駐フランス大使シュヴァルツェンベルクの献策を入れて、皇帝フランツ1世はマリー・ルイーズをフランスに差し出した。

1810年、18歳でマリー・ルイーズはフランス帝国皇后となった。

政略結婚だったが、いざ結婚してみれば、互いに相手を気に入り、愛し合う、仲睦まじい夫婦となった。

翌1811年には早くも嫡子ローマ王(後のライヒシュタット公)を出産、帝国に後継者を与えた。

皇后ジョゼフィーヌマリー・ルイーズも知らないうちにローマ王に面会し、抱きしめたうえで「どれほどのものを犠牲になさったか、いずれあなたもお分かりになるでしょう」と言ったという。

ちょうどその頃からナポレオンの運命は坂道を転げ落ちるように急降下し、ロシア遠征の失敗、ライプチヒの戦いの敗戦の結果、フランスにはオーストリア軍を含む連合軍がなだれこみ、1814年、ナポレオンは退位し、フランス帝国は瓦解した。

マリー・ルイーズは当初、ナポレオンとともに、エルバ島に行くことを望んだと言うが、連合軍は許さず、彼女は息子のローマ王ともども、父皇帝のもとに引き取られることになった。

離れてしまえば、侵略者としてのナポレオン、野心が過ぎて結局は帝国を崩壊せしめた夫に批判的になり、ナポレオンエルバ島を脱出し、百日天下で復活した後も、ナポレオンの元には戻ろうとはしなかった。

セントヘレナ島ナポレオンが流罪になった後は、物理的に困難だったのも一因とは言え、文通もしていない。

ウィーン会議後、マリー・ルイーズにはパルマ公国の統治者としての地位が与えられ、息子のローマ王をウィーンに残したまま、イタリアに赴任した。以後、おおよそはイタリアで生活を送ることになった。

パルマでは、首相のナイペルク伯(モンテヌオーヴォ)と秘密裏に結婚し、4人の子供をもうけた。うち、上のふたりはナポレオン生存中に生まれた子供なので私生児とされる。

ナイペルク死後は、同じく首相のボンメルと結婚した。

行政官としての彼女は非常に有能で、パルマのために尽くしたと国民から高く評価されている。

オーストリア支配下のイタリアにあって、マリー・ルイーズの支配するパルマ公国は例外的に自由主義的な政策をとっており、反軍国主義、福祉主義的なその政策は国民から強く支持されて、善政を敷いた。

イタリアではナショナリズムから反オーストリア暴動が頻発していたが、パルマでだけはほとんど起こらず、マリー・ルイーズは国民の支持をしっかりと掴み、善き女王、と呼ばれた。

権威主義的なオーストリア宰相メッテルニヒとは対立しており、1848年自由主義革命でメッテルニヒ失脚後は、外国人支配者でありながら国民の心をしっかりと掴んだマリー・ルイーズパルマ統治はモデルケースとして語られることが多かった。

1847年、ウィーンで死去。シェーンブルン宮殿ハプスブルク家霊廟に葬られた。

ナポレオン失脚後は、ボナパルト派と縁を切ったこと、息子のライヒシュタット公ウィーンにおいたままパルマに赴任したこと、ナポレオン存命中からナイペルクと通じたことなどから、ボナパルティストの間では彼女の評価は非常に低い。

しかし平和主義、簡潔にして福祉主義的な行政組織を基盤にして統治したパルマにおいては、今なお高く評価され、慕われる統治者である。