ルネ・マラン

読書

ルネ・マラン

るねまらん

René Maran (1887-1960)

1887年11月5日生まれ。父母はギアナ出身の植民地公務員。誕生の場所をマルティニクのフォール・ド・フランスとする説と、実はフォール・ド・フランスに向かう船内で誕生したのだという説がある。公務員の父の赴任にしたがいコンゴで二年を過ごす。ついでボルドーの寄宿舎に送られる。ここでフェリクス・エブエを知る。フェリクス・エブエ(Félix Eboué)はフランス植民地総督になった黒人の行政官。フランス植民地史で特異な人として知られる。

優秀な生徒であったマランは16歳の時に詩を書き始め、18歳には雑誌"les lettres françaises"に寄稿、スポーツを愛好する。1905年には法学部に入学。

1909 年に最初の詩集は発表。ついで父の働くコンゴへ行く。父の死後も植民地公務員として働き、文学活動も続行する。1912年に二番目に詩集を発表、好評を得る。ついで『族長バツアラ』の構想を得て、この完成に9年を費やす。この小説は1921年にアルバン・ミシェル社から出版され、スキャンダルを引き起こす。批判は黒人が植民地批判をするなどとはもってのほか、というものだった。しかしこの小説を文学的に評価する批評もあった。

1921年12月15日に『バツアラ』はゴンクール賞を受ける。コンゴにいたマランは受賞を知らなかった。当時の批評は『ネグロがネグロを描いた最初の小説』というものだった。

『バツアラ』は16ヶ国語に翻訳される。マランはパリに移り住み文筆で生きることを決心する。しかし実情はフランス人の同僚から殺人の脅しなどを受けたために余儀なく公務員職を捨てざるを得なかったみられる。事実マランは友人の忠告にしたがって身の危険を避けるために英国スーダンからフランスへ入国している。

こうした反応は植民地公務員の腐敗ぶりや植民地支配そのものを批判した『バツアラ』の序文にある:

『文明とはヨーロッパ人の驕りだ。それは無辜の人々の墓場。お前の誇りは死骸の上に立っている。お前は法を超える力だ。(・・・)いつの日か、アフリカでは不幸な黒人が人頭税を払うために妻を売ったことを私は語ってみせる。植民地の裕福な生活がいかに下劣な日常でなりたっているかを。

行政官庁が婉曲にも『悪習』と呼ぶものを正すために私は本書を書いた。闘争は困難だ。奴隷商人と戦うのだ。』

マランはゴンクール受賞後40年間創作を続ける(詩、短編、研究、小説、エッセー、伝記)。

マランは自身のアイデンティティの問題を1927年に発表した自伝的作品"Journal sans date"(日付のない日記)で書いている。

フランツ・ファノンは『黒い肌、白い仮面』でマランを分析の対象にしている。

マランは1960年5月9日に死去。

ネグリチュードの先駆者であったマランはレオポルド・センゴール、エメ・セゼールレオン・ゴントラン・ダマスなどの若い才能の登場で不当にも隅に押しやられ、忘れられている。