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レオモード

名詞は「静態的」すぎ、「静止画像」のような「断片化」のインフレーションを起こし勝ちで、つまりは処理不能なエントロピーの乱麻-密林に更に深く侵入していくようなドツボ状態か、もしくはそれらの多くを受け付けられない簡疎な偏重くらいしか有りえない。

つまり「パラノ」か「スキゾ」の二形態しか許さないわけで、まさしく現代は“名詞の悲劇”ともいうべき(名詞の)弊害を被りながら、その不都合を受け容れつつ展開されている文化といえる。

これに対し、動詞を中心に据えた言語体系で思考したら、もっと融通に物事の把握も出来るし、ダイナミックな行動が可能ならしめる筈である、と考えたデヴィッド・ボームが編み出した文法こそが「レオモード」であった。

新聞に掲載される写真が明確に「点の集合体」であるように、ホログラムも3次元的なラスタ・データ(=点情報)の集合体でしか過ぎないのなら、我々は容易に騙されるだけである。「現実」と「虚構」の違いはどこにあるだろうか?

ドゥルーズガタリの『千のプラトー』の主張はただ一つ;「点になるな、千になれ!」であり、ここに「ベクトル・データ」という解答系がある示唆をしたのだ。

「→」〔矢印〕だけで出来たオブジェが出来てもいい頃だ。