応仁の乱より百年。 長く続き過ぎた戦国の世は、いよいよ終わりが近づきつつあった。 天下布武を掲げ上洛した織田信長は、浅井・朝倉・そして戦国最強と謳われる武田を次々と降し、その勢力を着実に広げていく。 そして天正5年(1577年)、信長本隊による播磨・赤松攻め、山岡による六角攻め、伊勢貞興による対足利反乱、松永久秀による対三好反乱、そして明智光秀と徳川家康による京都侵攻という多方面同時作戦によって、包囲網を背後から支える将軍・足利義昭の権力簒奪を狙っていったのである。 しかし、翌天正6年(1578年)7月21日未明。播磨攻めから帰還していた織田信長が滞在中であった本能寺が何者かによって火をかけら…