「昭和文学年表」を見ていたら、1982年2月3日の「毎日新聞」夕刊に武田勝彦「文士よ高潔であれ 川端康成の名誉のために」というのを見つけた。これは知らなかったが、毎索で見ても表示されなかったので国会図書館から複写を取り寄せたら、同年2月号『すばる』に載った耕治人の「なにかに祈って、これを書く」への抗議文であることが分かった。同作は『耕治人全集 第4巻』に載っており、116pとかなり長い。 耕ははじめ千家元麿に師事したが、千家が死んだりして、川端の世話になることが多かったが、川端の妻・旧姓松林秀子の弟の松林三八郎の誘いで、杉並区野方に土地を借りて三八郎の隣に住んだことから紛争になり、三八郎の人柄…