能島村上家臣。天正十年(1582)四月の来島村上氏の毛利方離反以降、能島村上氏と小早川氏との間を使者として頻繁に往来した。史料には「久修」として見えることが多い。 能島村上氏の去就 来島城攻め 鹿島城包囲と人質返還交渉 岩城島での「御対談」 参考文献 能島村上氏の去就 天正十年(1582)四月、来島村上氏が毛利氏から離反し、織田方に走ったことが決定的となる。 四月五日、小早川隆景は家臣・乃美宗勝に因島村上氏の村上亮康が来島に渡ったことを伝えており、この頃、毛利方から最後の説得工作が続けられていたとみられる。しかし二日後の四月七日、小早川隆景は亮康の兄吉充にあてた書状で「両島相違の段申す事無く候…