後漢末期の人物。趙昂の妻。名は士異とも。
正史三国志において従軍の記録が残る数少ない女性人物。
趙昂は涼州刺史・韋康に仕えていたが、213年に馬超軍に包囲された際、「韋康が降伏を検討している」と漏らした趙昂に対し、「援軍の望みを捨てず徹底抗戦したほうがいい」と助言した。しかし、このときは韋康は結局降伏してしまい、程なくして殺されることとなった。夫妻も嫡子・趙月を人質に取られることになったが、ひとまず馬超の信任を得ることに専念し、反抗の機会を待つことにした。
果たしてその機会が訪れた際、子の生命を惜しんだ*1趙昂に対し、「主君の恥辱を注ぐためなら命は惜しくない、ましてや子の命など…」と叱咤し、覚悟を決めた趙昂は楊阜らと挙兵、結果趙月は殺されることになったが、魏からの援軍が来るまで持ちこたえた上、馬超軍を退散させることに成功している。
*1:これ以前に反乱に巻き込まれて男子二人を失っている