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沖田総司

(一般)
おきたそうじ

新選組一番隊隊長、撃剣師範。天然理心流五代目。天保13年(1842年)、もしくは天保15年(1844年)〜慶応4年(1868年)5月30日。
白河藩士の子として生まれるが、のちに脱藩する。嘉永三年(1850)9歳で惣次郎は試衛館に内弟子として預けられ、10代で免許皆伝、文久元年の20歳頃には試衛館の塾頭を務めるまでになる。この頃から名を惣次郎から総司とする。
文久3年、近藤はじめ試衛館の面々と共に浪士組に参加し上洛。壬生に到着後、近藤一派として京都残留、新選組にあっても常に筆頭に名が上げられる腕の持ち主だった。
池田屋事件では近藤ら共に4人で斬り込み、その戦闘中に喀血。池田屋から運び出され慶応3年12月20日に療養のため隊を離れて大坂へ下り、慶応4年5月30日、肺患で死去。

沖田総司について

「丈の高い痩せた人物、肩がぐっと上がり気味に張って頬骨が高く、口が大きく、色は黒かった」
「この人は自分の出来る割に教え方が乱暴で、おまけになかなか短気であったから、門弟たちは勇よりはずっと恐ろしがっていた」と言われている。
永倉新八は「竹刀を持っては、みんな子ども扱いされた。本気で立ち合ったら勇もやられるだろう」と語っている。
非番のときには壬生寺の境内で近所の子供たちや子守を相手に、よく鬼ごっこなどして遊び、冗談ばかり言って真面目な顔はあまり見せない陽気な性格の人だった。
剣術を遣う形は師匠の近藤勇に似ていて、太刀さばきに少しうるさい癖があり、勇が少し腹を突出し加減の平星眼であったに比し、沖田は太刀先が下がり気味で前のめりの構をとっていた。
文久二年(1862年)、沖田総司は悪性の麻疹になり、小島鹿之助の日記に「病の軽重あい分らず。此人(総司のこと)剣術は晩年必ず名人にいたるべき人なり。故に我ら深く心配いたす」と書いてある。
佐久間象山の息子・三浦啓之助という隊士が剣術の腕はさっぱりだったため、ある隊士にからかわれた。その怨みから後日、土方歳三と沖田総司が碁を打っている側で三浦啓之助はからかった隊士を背後から斬りつけると、沖田総司は猛然と腹を立て「この馬鹿野郎!」と叫ぶと啓之助の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦啓之助は鼻の皮を真っ赤にすりむいたというエピソードがある。

沖田総司のスター化

司馬遼太郎の小説「新撰組血風録」および、65年に、TVドラマ化した同名作品での、島田順司の「美青年ぶり」(現在の視点で見るとそれほどでもないのだが)により、「夭折の美剣士」というイメージが定着し、以降の新鮮組ドラマでは必ず、美青年が沖田を演じるようになった。
また、少女たちの間でも、沖田自身が「スター」視されるようになった。

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