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沖縄戦

社会

沖縄戦

おきなわせん

Battle of Okinawa


太平洋戦争の末期、沖縄本島および周辺島嶼・海域で行われた戦闘。

1945年3月末に連合軍が侵攻し、4月1日に本島に上陸。6月23日の日本側司令官の牛島中将の自決によって主要戦闘は終了するが、以後も戦闘は続き、一部部隊は終戦まで残存している。当時の沖縄には40万を超える住民が存在しており、これを巻き込む形で戦闘は展開、十万以上と言われる多数の民間人犠牲者が出たことでも知られる*1


背景

沖縄戦は日米双方にとって本土上陸のモデルケースであり、その意味においては「決戦」であった。

沖縄に先立つ台湾沖航空戦とレイテ沖海戦によって、日本海軍の戦闘力は事実上消滅していた。太平洋の戦いが島嶼と水上交通路を巡る戦いであったことからすれば、この時点で戦争の勝敗は確定していた。

しかし、日本側は講和を求められるような国内事情になく、アメリカ側としてはさらなる戦果が必要であった。こうして立案された沖縄攻略作戦であるアイスバーグ作戦*5は、日本本土への上陸作戦を行うための基地を確保するとともに*6、日本の本国領土を占領することによる政治的な効果も視野に入れたものだった。

一方の日本側にとっても事情は同じであり、陸上作戦を展開できるだけの地積を有する沖縄本島での戦闘は「来るべき」本土決戦の雛形となるものだった*7。ここで大きな出血を強要することで米側に本土決戦への躊躇を与え、(講和における)なんらかの条件を得られる可能性があると考えられていた*8

日本側防衛計画

昭和19年秋、日本側の防衛戦力の中核である第32軍は、大陸から転用した第9師団、第24師団、第62師団の3個師団を持ち*9、さらに軍直轄砲兵として第5砲兵司令部がおかれた。

作戦意図としては単純明快であり、敵上陸後に有力な砲兵支援下に3個師団を集中した攻勢*10を実施、上陸部隊を撃滅するというものである。必然的に上陸に先立つ準備砲爆撃に耐えうる築城にも意が注がれた。

しかし、1944年にフィリピン戦が始まると、台湾防衛のために第32軍から一個師団を転用するという話が持ち上がる。もちろんこれは全作戦構想の否定に繋がる物であり、第32軍は反対したが最終的には押し切られる形となった。

結局、第9師団台湾に転用され、大本営が代わりに送るとした第84師団は輸送困難として派遣中止になり、先島諸島にも兵力を分派したままにする、という極めて日本的な曖昧かつ中途半端な形で決着した*11

3個しかない本島配備師団の1個を失ったことで、作戦構想は全面的に変更された。海岸堡に対する攻勢は放棄され、内陸での複式陣地の築城とそこでの持久作戦が唯一の可能な計画となった。このため、沿岸部や飛行場などの防衛も事実上除外することとなった。

アメリカ側攻勢計画

太平洋戦争アメリカの反撃は南太平洋ガダルカナル上陸で開始された。ソロモンでの死闘の結果、日本航空戦力の最精鋭部分は完全に消耗し、そのまま本当の意味で復活することはなかった。

彼らの攻勢軸は2本、中部大西洋を西進する物と、南部太平洋から西北に進んでフィリピンを目指す物である。前者は伝統的なオレンジプランに基づく水上決戦と日本封鎖にいたる道であり、後者は言わずと知れたマッカーサーのイニシアチブによるものだった。海軍陸軍の対立という側面もあるこの分裂は大きな問題となったが、最終的にはアメリカの国力がすべてを解決した。マリアナには日本本土空襲の拠点が築かれる一方でマッカーサーは「アイ・シャル・リターン」の公約を果たし、海軍は最後の目標である沖縄に目を向けていた*12

予定では1945年1月に硫黄島を攻略し、3月1日に沖縄への上陸を開始する手はずとなっていた。が、フィリピンでの戦闘遅延と天候悪化に伴い、上陸作戦は1ヶ月遅らせ、本当への上陸開始は4月1日とされた。


地上戦

3月26日、米軍の一部が慶良間諸島に上陸作戦を行う一方、上陸正面を欺瞞するための陽動作戦を行った。

つづいて4月1日早朝より、戦艦10隻を含む有力な砲撃部隊の事前砲撃と空母搭載機による支援爆撃が主上陸海岸である嘉手納に対して開始された。つづいて第10軍主力の上陸が行われた。米側の予想に反して日本側は水際防衛を放棄していたため、ほとんど完全な無血上陸となった。日没までには6万以上の兵員が沖縄の地を踏み、最重要目標であった飛行場*13の占領にも成功していた。その後も米軍の前進は続き、4月3日は島の東海岸に到達、沖縄本島を南北に分断した。

が、4月7日頃に米軍が第62師団の主抵抗線に到達すると戦闘は本格化した。十分な砲兵支援を受けた日本軍が、十分な強度で構築された陣地で待ちかまえており、主方面での米軍の前進は遅々として進まなかった。これは実に、太平洋戦域で米軍が初めて経験する「本当の」陸戦だと言えた。

それでも昼間は航空支援と艦砲射撃の威力によってわずかなりとも前進することが可能だったが、それらの使用できなくなる夜間には日本軍の反撃によって押し戻されることもしばしばだった。遅滞戦闘の末、4月25日ごろまでには第62師団の戦力は大半が失われたが、米軍もわずか5kmほどの前進しか果たせてなかった。

4月29日、今後の作戦方針を決定する会議が第32軍において行われた。各方面から第32軍に対して攻勢作戦を要求する声が大きく、一部の反対意見にもかかわらず5月4日に全面的な反撃作戦を実施することになった*14

5月4日、日本側の攻勢が開始された。もちろんそれまで成功していた戦法を放棄した日本側に対して戦運が巡るはずもなく、(一部に健闘した部隊もあったものの)結局は約5000の損害と貴重な物資の消耗をもたらしただけで、攻勢は早々に中止された。以後、第32軍は本来の持久作戦に戻る。

5月12日から18日にかけて、日本側の首里防衛ラインの要衝シュガーローフ(52高地)を巡る激戦が繰り広げられ、海兵隊は大きな犠牲を払いつつも高地を確保した。

ここが何らかの決断が可能な最後のタイミングだった。あくまでも首里で最後の一兵まで抵抗を続けるか、それとも他方面に移ってさらなる持久戦を続けるのか*15

最終的には沖縄本島南部、喜屋武半島へ撤退し、そこで持久戦を継続することとなった*16

南部一体には戦火を避けた住民多数が流入しており、この決定によってそこが戦場となることが確定した。一応、作戦地域外とした知念半島への避難が指示されたが、戦闘継続中の混乱等によってそれが十分に果たされることはなかった*17

5月30日、軍司令部は最後の所在地となる摩文仁に移転。他の部隊も順次島南に入った。一応は撤退自体は成功したことになっているが、実際にはこの過程で士気は大きく動揺し、以後の戦闘の様相に様々な悪影響を与える主因の一つとなっている。

海空戦

菊水作戦

帝国海軍の正面戦力はほぼ完全に喪失していた。もちろん海軍の本質は「決戦」にはなく、自国の海上交通線と商船隊の保護にあるのだが、首脳部は未だこのことに気付いてなかった(あるいは気付かないふりを続けていた)。

実のところ、海軍艦艇が全滅したわけではなく、最大時12隻を有した戦艦は5隻が残存しており、空母についても新造の雲龍級の二隻など、まだ航行可能な状態で残されている主力艦自体はあった。が、それを動かすための燃料はまったくもって不足しており、「戦力」として活動させることはほぼ不可能な状態だった*18

海軍沖縄戦特攻機の大量投入を決めており、事実上これが最後の作戦機会であった。

このような状況下において、戦艦大和を基幹とする第二艦隊による水上特攻作戦が立案・実行された。


*1:役所の記録が戦火で消滅したり、一家全滅したり等の理由で死亡確認がなされていない犠牲者も多数存在すると見られ、実数は未確定のままである。現地徴用された人をどこまで「民間人」とするのかも難しい

*2:どこで区切るかは諸説有るが、ここでは「沖縄戦概説」に倣い、連合軍による上陸前攻撃の開始から牛島中将自決による司令部消滅までとした

*3:うち、約2000機がいわゆる特攻機である

*4イギリス東洋艦隊含む

*5:Operation Iceberg

*6軍事的要求とは別に、相手に城下の盟を強いるための手続きの一部としても「上陸作戦のための基地」は必要である。

*7:本当に本土決戦を行えるとか行うべしと考えていたかは、やはり別問題である

*8:無論、このような明快かつ一貫したグランドデザインを日本側指導部が共有していたわけではなく、むしろ逆に、混乱した指導によって犠牲を増やした場面が多々見られる

*9:他に第32師団先島諸島方面にあった

*10:もちろん夜襲

*11:当然、軍中央に対する第32軍の不信感は極めて大きな物となった。この期に及んでも本土決戦に備えて戦力を温存するのか、それとも沖縄に全部つぎ込むのかすら決められなかったというのが統帥の実態だった

*12:当初の予定は台湾上陸作戦「コーズウェイ」だったが、1944年10月の作戦見直しで優先順位を下げられていた

*13:北飛行場と中飛行場

*14:会議の経緯については八原高級参謀の回想などによる

*15普通の国であれば主抵抗線を突破されたら、あるいはその手前あたりで降伏するはずだが、言うまでもなく当時の日本は「普通」ではなかった

*16:日本側の築城能力の制約で、首里の複式防御陣地が完成していなかったことが大きな原因だとされる。

*17:この原因について、日本軍の体質だの天皇制国家だったからだのなんだのと色々指摘することは可能だが、結局は対外戦の経験が不足していたという点に求めうる。普通は戦争に負けても国は残る(というか残るような負け方に留めるように努力する)はずだし、国民が生きていれば再起を図れるはずである。戦時国際法だの非戦闘員の保護だのも、それらの前提を機能させるためのルールであるとの意識がなかったように思われる。無条件降伏という謎の単語を発するアメリカ人たちを、チャーチル(やスターリン)が変だと思ったのは当然ではある

*18:石油を禁輸されてこのままでは海軍戦力は戦わずして消滅してしまうというのが開戦の一因をなしたことから考えれば、当然とも言えるし、考えられないとも言える状況ではある

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