下北沢文士町

一般

下北沢文士町

しもきたざわぶんしまち

 下北沢文士町 とは、この一帯に多くの文士居住痕跡があることからいうものである。すなわち、小田急井の頭線が交差する下北沢鉄道交点一帯には、交通の利便性から多くの文士たちが集っていて、文士町を形成していた。

 

 意図的に集まったというよりも鉄道の利便性と武蔵野残存風景が結果的に文士を集めたと言える。いわゆるファミリー的な参集ではないことから「文士町」と呼ぶようにした。この名称は、作家の痕跡を丹念に調べ、記録している「北沢川文化遺産保存の会」が名づけたものである。

 下北沢文士町の形成を大まかに記しておきたい。始まりは昭和二年に小田急が開通したことが大きい。昭和三年に横光利一がここに家を建てて引っ越してくる。新開地で新感覚の文学描写を試みたとも言える。往時は、武蔵野風景が多く残っていて、彼はそれを好んだようだ。続いて、横光の居住する丘下に東郷青児宇野千代が瀟洒な家を建てて引っ越してくる。同じ頃に萩原朔太郎下北沢駅近くに越してくる。

 昭和八年に帝都線、現井の頭線が開通し、下北沢鉄道がクロスする街になって、いっそうに便利になる。この利便性が一層に文士達を集めたといえる。旧居跡を記した「下北沢文士町文化地図」をみると鉄道交点を中心に据えて多くの赤印が認められる。鉄道が人々を呼び寄せたことを端的に物語るものだ。

 文士町というのは、今なお文学的営為が一帯で続いているからでもある。作家は今も多く居住している、かつてあった文士村というものではない。生き続けているという意味から町としたものだ。


 下北沢文士町の全貌はいまだ掴めてはいない。が、居住痕跡が認められるのは次の作家たちである。

 萩原朔太郎横光利一、尾山篤二郎、斉藤茂吉三好達治、加藤楸邨、中村草田男、中村汀女石川淳田中英光、田村泰次郎、井上友一郎、大谷藤子、森茉莉森瑶子中山義秀大岡昇平安岡章太郎宇野千代坂口安吾網野菊、福田正夫、渡辺順三、宇田零雨、一色次郎、日野啓三などである。居住痕跡の全貌はまだよくわからないというのが実情である。小宮豊隆吉田健一などが居住していたことも聞いている。

 なお、これは文士だけを取り上げたものである。文化には芸術が寄り添うものである。この一帯にはいわゆる芸術家は著しく多い。全部調べ上げられないほどだ。作詞家、作曲家建築家日本画家、洋画家、彫刻家、映画監督などである。ことに特徴的なのは、先行の文士村、田端馬込と違って、当地、「下北沢文士町」は映画との関連があることだ。これは砧に撮影所があったことによるものであろう。

 これらの事実を記録したものに「北沢川文化遺産保存の会」が発行している「下北沢文士町文化地図」がある。既に二版1万2千枚が配られている。なお、「下北沢文士町」の参考文献としては「北沢川文学の小路物語」(北沢川文化遺産保存の会発行)がある。これは絶版となっている。世田谷区内の図書館では閲覧ができる。

 文化的な事象を形に残そうとして活動を続けているのが「北沢川文化遺産保存の会」である。その活動の一環として代沢小学校に2007年、坂口安吾文学碑が建てられた。坂口安吾はかつて代沢小に代用教員として務めていて代田橋に下宿していた。「風と光と二十の私と」はこのときのことを書き記した作品だ。その一節が文学碑に刻んである。

 下北沢の南手を流れている北沢川沿岸に文士が多く居住していたことから「北沢川文化遺産保存の会」が遊歩道沿いを「北沢川文学の小路」にしようという提案を行っていた。これについては行政世田谷区側が、遊歩道に看板を設置する際に、二箇所にこの説明を記した文言を掲げている。

 

 この「下北沢文士町」については「下北沢文士町文化地図」というものがあってこれが無料で配布されている。「北沢川文化遺産保存の会」の事務局のある喫茶「邪宗門」で配布している。既に一万二千枚ほどが配布され、現在のものは「大改訂3版」である。