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近衛基平

(一般)
このえもとひら

近衛基平(寛元4年(1146年)10月10日〜文永5年(1268年)11月19日)は鎌倉時代中期の関白・左大臣。深心院と呼ばれる。関白太政大臣近衛兼経の男として生まれる。母は九条道家の女仁子。同母姉には鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の室となった宰子がいる。建長6年(1254年)元服し、翌7年6月2日には権中納言に任じ、正嘉元年(1257年)11月10日権大納言に、翌2年11月1日には内大臣に昇った。弘長元年(1261年)3月27日に右大臣、文永2年(1265年)10月5日には左大臣に昇った。文永4年(1267年)12月9日、母方のおじ一条実経と交替に22歳の若さで亀山天皇の関白・藤原氏長者になる。12月28日には内覧宣治を受ける。
彼は藤原忠実の日記『殿暦』の抄出や、自らの関白就任に当たっては慶賀の次第書を作成、後嵯峨法皇の逆修供養に際し、願文の清書を行なうなどの事跡を残した。歌人としても勅撰和歌集に二三首入集するなどの事跡を残している。しかし彼を有名ならしめたのは文永5年(1268年)に来日した潘阜のもたらしたモンゴル国大ハーンフビライと高麗国王元宗の国書に対する返牒の可否を審議した場において、返牒不可の結論を主張したことであろう。結局基平の意見が通り、フビライと元宗の国書に対する返牒(返事)は出されないこととなった。そしてその姿勢は北条時宗を首班とする鎌倉幕府に引き継がれ、日本はパクスモンゴリカへの抵抗の道を選ぶのである。
同年11月19日、基平は23歳の若さであっけなく病没してしまう。
彼の日記『深心院関白記』は基平10歳の建長7年(1255年)6月の権中納言になった際の慶賀の記事から始まり、没年の文永5年3月にいたる日記である。文永5年のフビライ・元宗国書をめぐる議論などが記録されている。
なお、大河ドラマ『北条時宗』では宮内淳士が演じ、モンゴルへの返牒を非として亀山天皇の前で自害し、北条時輔の介錯を受けるシーンがあるが、もちろんフィクションである。

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