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九条道家

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九条道家

くじょうみちいえ

九条道家(建久4〔1293〕年7月〜建長4〔1252〕年2月21日)は摂政関白左大臣

九条兼実の孫。父は九条良経、母は一条能保女*1

長男九条教実をはじめ、次男二条良実(二条家)、四男一条実経(一条家)は摂関となり、また三男藤原頼経鎌倉幕府代将軍となった。

建仁3(1203)年、元服正五位上に叙せられ、以降左近衛中将、権中納言と昇進を重ねる。元久3(1206)年、父良経が急死すると九条家を継承する。

姉の立子を順徳天皇のもとに入内させ、懐成親王(後の仲恭天皇)が生まれると、東宮傅となる。

鎌倉幕府代将軍の源実朝が暗殺されると、幕府は後継者に後鳥羽上皇の皇子を要請するが、断られ、結局幕府源頼朝に縁のつながる道家の子の三寅(藤原頼経)を将軍候補として要請し、道家は頼経を下向させた。

そのころ順徳天皇は懐成親王譲位し、懐成親王践祚し、道家摂政となる。しかし朝幕の対立から承久の乱が起こり、後鳥羽・順徳の二上皇幕府によって流罪となり(土御門上皇は倒幕に参加していなかったが、自発的に土佐国に移る)、仲恭天皇廃位され、道家摂政罷免される。

嘉禄元(1225)年、頼経は元服し、征夷大将軍に就任する。鎌倉幕府とのゆかりも深い道家は安貞2(1228)年、関白に就任する。そのころ長女の竴子(そんし。「そん」は[立+尊])を後堀河天皇のもとに入内させ、秀仁親王(後の四条天皇)が生まれる。秀仁親王即位すると、子の九条教実が摂政となるが、文暦2(1235)年死去し、道家摂政となる。

嘉禎3(1237)年には摂政を辞し、翌年には出家するが、四条天皇の外祖父、太閤として権勢を振るう。

しかし仁治3(1242)年には四条天皇が急死し、道家順徳上皇の皇子忠成王を推すが、鎌倉幕府順徳上皇が存命中であることを警戒して土御門上皇の皇子邦仁王を推し、幕府の推した邦仁王が践祚する(後嵯峨天皇)。

道家の次男の二条良実が西園寺公経の推挙もあって関白に就任するが、良実と道家はこのころ不仲となっており、道家の権勢には陰りが見え始めた。

西園寺公経が死去すると、道家は関東申次の職を独占し、良実を罷免すると、寵愛する四男の一条実経を擁立し、関東申次の職を道家・実経・近衛兼経(道家の娘婿)の三人に強化して幕政へも将軍藤原頼経を介して干渉し始める。頼経の周辺には当時まだ若かった執権北条経時に反発する北条一門の有力者名越氏や、有力御家人の三浦氏・千葉氏が頼経を中心とした政治勢力を作り出し、北条得宗政権から危険視されるようになっていく。背景には北条泰時の子の時氏が早世して孫の経時や時頼はまだ若く、一方頼経は壮年にさしかかって政治的権威のみならず、政治的実権を保持する実力を持ち始めていたことがある。

寛元2(1244)年、経時は頼経を将軍職から下ろし、頼経の嫡子の頼嗣を5代将軍に据え、頼経を帰京させようとするが、頼経は言を左右にして帰京に応じず、反得宗の政治的勢力の結集核として機能する。

寛元4(1246)年、経時は死去し、弟の北条時頼が20歳で執権に就任すると、時頼は名越光時、時幸兄弟を降伏させ、光時は出家、時幸は自害する。三浦泰村が時頼に付いたため、帰趨は決し、頼経は京都へ送還される(宮騒動)。道家も名越氏の謀反計画に加担していた容疑で関東申次を罷免され、実経も摂政罷免される。

さらに追い討ちをかけるように建長3(1251)年には足利氏を中心とする時頼政権打倒計画に藤原頼嗣と祖父の道家が関与していた嫌疑がかけられ、九条家は良実を除き勅勘を蒙り、九条一門は没落する。翌年2月、道家は失意の中、急死する。

道家浄土門、特に法然帰依する一方で、禅にも傾倒し、東福寺を建立した。道家は日記『玉蘂』を著している。

*1源頼朝の姪にあたる。