御館の乱(おたてのらん)
1578年、上杉謙信急死後、家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で起り、越後を二分した内乱。景勝は謙信の葬儀が終わると春日山城を占拠。景虎派は上杉憲政の居館である御館に入り対抗した。武田勝頼は、景虎支援のために侵攻を開始したが、景勝の贈賄工作により同盟を結び和睦。北条氏政も弟景虎支援のために侵攻したが御館にはたどり着けなかった。景虎は孤立無援となり、景勝方の総攻撃により御館は陥落した。景虎は自害した。
新装版 天地人 上 天の巻【電子書籍】[ 火坂雅志 ]価格: 503 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 越後魚沼郡に生まれた樋口与六兼続は、上田衆として同郷の上杉喜平次景勝を主君として仕えていた。跡取りがなかった上杉謙信は、甥の景勝を養子に迎えると言うが、謙信には既に北条氏康の七男で美男子と評判の上杉三郎景虎が養子となっている。その謙信は突如脳卒中で倒れ、後継者を指名しないまま49歳で亡くなってしまった。これにより「御館の乱」と呼ばれる家督争いが勃発する。 三郎景虎は生家の北条家と、同盟を結ぶ武田家の両家の支援を背景に、家中で勢力を伸ばしていく。兼続は不利な局面を打開するため、信長に敗れ焦って…
春日山城本丸跡からの眺め。眼下に頚城平野がよく見えました。謙信公がおられた頃はどのような景色が広がっていたのでしょう~ 今年もあと一週間となりました。 年々時間の経つのが早く感じます。 思ったとき、できるときにやっておくことが大切なのかな…。 後でやろうと思っても、きっとやることはないのだろうなぁ…。 ふとそのようなことを思ったりします。 旅も同じですね。行けるときに行っておくのが一番! これまで旅した場所を思い出すと、今なら果たして行けただろうか…と考えたり…。 行こうかどうしようかな…と、そんな風に迷ったときはやはりGO!ですね。 今回の旅の思い出は、前回のこちらの旅の続きをご紹介します。…
はじめに 5月上旬、午後から上越市の高田に用ができたので、その近くで散策できる里山を探しました。 以前、上杉謙信が青年期に過ごした鶴城山(栃尾城跡)を歩いたことがあり、謙信の二人の養子、景勝と景虎のことに興味をもちました。 そこで、謙信の死後、越後御館(おたて)の乱(二人の養子景虎と景勝の相続争い)で破れた上杉景虎の最期の地、鮫ヶ尾城跡を散策することにしました。 案内板 駐車場に車を停めると、そこは「斐太(ひだ)歴史の里」公園となっていました。 公園には、「 天神堂古墳群」と「観音平古墳群」(古墳時代)があり、散策できる遊歩道もあります。 駐車場のそばには弥生時代の後期の遺跡「斐太遺跡」もあり…
Wikipediaで歴史シリーズです。日本の戦国時代は「Wikipedia戦国史(1) 二階堂阿南」に続き2つ目です。 なおこれは『NHK大河ドラマ真田丸』をやっていた2016年にまとめたノートの掘り起こしです。個人的には池波正太郎『真田太平記』を読み,そのNHKドラマ化も見ました。真田昌幸を丹波哲郎,真田幸村を草刈正雄が演じました。『真田丸』では真田昌幸を草刈正雄,真田幸村を堺雅人が演じます。 ============ 武田信玄と上杉謙信は宿敵ですが,息子達の代で同盟します。 織田が強大になりすぎたというのが大きいですが,直接のきっかけは「御館(お たて)の乱」です。 これは「上杉謙信の後継…
冬と春が激しい攻防を繰り広げる季節なので 体調などいかがでしょうかもく? のろしは元気ですっ こんにちはもく (((= ´ σз`)ノ さてさて 戦国IXAでは 3月 の 追加武将 が 公開されました もく 追加されるのは 【 極 】十河一存さん 豊臣秀長さん 梅津憲忠さん 五郎八姫さん 【 特 】松倉重政さん 吉良親実さん 桂林院さん 【 上 】成富茂安さん 【 序 】穂井田元清さん 以上の 9 名 ------------------------------------------------------------- 梅津憲忠【 極 】、五郎八姫【 極 】は 取引出品・譲与不可で 202…
.important { font-weight: bold; } .section-title { color: #333399; font-size: 24px; margin-top: 20px; } はじめに:上杉謙信ってどんな人? 上杉謙信は、戦国時代に活躍した有名な武将です。新潟県にあたる越後国を治めていた謙信は、公平で知られ、武勇にも優れていました。特に、彼と武田信玄との間で繰り広げられた川中島の戦いは、日本史の中でも特に有名なエピソードの一つです。謙信は、武士としての勇気だけでなく、仏教思想にも深い理解を持っており、その生き方は多くの人に尊敬されています。 時代背景:戦国時代っ…
盆暮れ正月絶対実家に集まる長船派(放任主義)、実休光忠のためにまわしてたら小豆長光がきてくれました。景光は2振りいらして長光も2振り、あと長義もいるので、光忠界隈目指して引き続き回すかなというところ。と思っていたら最終日に実休光忠もきてくれました終了!ありがとな優しいやさしい長船様。大好きです。 9周年ということでド茶番を鳥海さんが率先してやってくれるなか、唐突にHPできて笑う。あのtwitterだけのテキトーさも好きでしたよ。管理大変そうだからてきとーでいいのよ。 そして無からはえてきた(いや十分相州の広光なのではえてきてもいいんだけど)大倶利伽羅くんの弟(か?脇差ちゃんだよね)(わたし今ま…
こんにちは のろしですもく (・ε・)ノ 戦国IXAでは 「 今後の統合計画とワールド再編成計画 」や https://sengokuixa.jp/2023_24_schedule/ 「 2024年2月の新章突入までの各種日程について 」が発表され https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n658d29991375e 来期のことが気になる今日このごろですが そのまえに2024年1月も 戦国IXAに 新しい武将たちが登場もく 1月 の 追加武将 が 公開されました もく 追加されるのは 【 極 】 東向殿さん 浅井亮政さん 支倉常長さん 長谷川等伯さん 【 …
本与板城本丸の城址碑と縄張図と背後の土塁 名前が示す通り、古い方の与板城で、当然ながら築城当初はただの与板城と呼ばれていた。 中世の与板に関する資料が少ないためか、この本与板城の築城時期などもはっきりしないが、伝承では、新田義貞の長子義顕の一族である籠沢入道が、建武元年(1334)に築城したと伝わる。その後、室町時代から戦国時代にかけては、越後守護上杉氏の家臣飯沼氏の居城であった。 越後国では、上杉房定の時代に領国体制の安定期を迎えるのだが、その子房能の時代になると、守護代長尾能景との対立が生じるようになる。それでも、まだ守護と守護代という枠組みを踏み外さなかった能景の代は平穏であったが、能景…
今は村上城と呼ばれ、所在地も村上市となっているが、元は豪族本庄氏の居城で、本庄城や本荘城と書いた。そのころは中世的な山城だったと推定され、鎌倉時代の築城という伝承もあるが、本格的に構築されたのは戦国時代初期とされ、本庄時長か、その子房長によって築城されたと見られている。 本庄氏は平姓秩父氏の出で、一説には、その庶流である畠山氏が直接の祖ともいい、鎌倉時代初期に小泉庄の地頭となった秩父行長とその弟為長は、それぞれ本拠とした地名から本庄と色部を名乗った。これが同族である本庄氏と色部氏の最初で、行長は長子であったことから、小泉庄の中心地を意味すると思われる本庄という土地を領したのだろう。 その後の本…
詳しい築城年代は不明だが、近くの鵜川神社の由緒によると、上杉房方に従って伊豆から入部した宇佐美秀満の弟祐益が、応安元年(1368)に築城したとあり、それ以降、戦国後期まで宇佐美氏の居城だった。また、字は枇杷嶋、枇杷島、琵琶嶋とも書く。 宇佐美氏は、伊豆に栄えた工藤氏の一流である。曾我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の弟で、源頼朝に仕えた祐茂を祖とし、名字の地である宇佐美郷は、現在の伊東市街の北にあった。 鎌倉時代の宇佐美氏は、吾妻鏡にも散見されるほど有力な在地領主で、室町時代になっても足利家と直接繋がりを持って勢力を維持したらしく、鎌倉公方の直参になるなどしている。だが、本家の当主であった定興は堀…
長岡城本丸跡の碑と石垣をモチーフにした石材のオブジェ 江戸時代の長岡藩の城。芋引形兜城ともいう。 長岡城が築かれる以前は、古くは越後長尾氏の一族であった古志長尾氏の景春が、やや北の信濃川沿いにあった蔵王堂城に在ったことが見え、戦国時代には上杉謙信を支える有力な一門衆であった。 しかし、天正6年(1578)に没した謙信の後継を巡る争いである御館の乱で、当主景信が北条氏から養子に入った景虎を支持して討死し、後継と目されていた河田長親も直後に没したため、古志長尾氏は断絶してしまい、長岡周辺は上杉氏の直轄となったようだ。こうして、蔵王堂城には代官として丸田俊次などが入ったという。 慶長3年(1598)…
新発田藩溝口氏の城であるが、古くは越後の国人新発田氏の居城があった。 城は、平野部にあった平城だが、周囲は湿地や沼、深田に囲まれ、さらに戦時には加治川の堤防を切って難攻不落の城と化したという。そのため、浮船城という名もある。 新発田の古城の城主であった新発田氏は、宇多源氏佐々木氏流加治氏の庶流という。佐々木盛綱が源頼朝に味方して越後国加治荘を賜り、地名を名乗ったのが加治氏で、加治氏は備前の守護となり、備前と越後に勢力を拡げたが、いつ頃に新発田氏が分かれたのかは不明といい、一説には、盛綱の孫時秀が直接の祖ともいわれる。また、新発田城も新発田氏の発祥と深く関連しているはずだが、同様に城の築城時期も…
越後守護代である長尾氏の庶流上田長尾氏が居城とした山城で、上杉景勝、直江兼続ゆかりの城としても知られる。国指定の史跡で、坂戸はサカドと濁って読む。 坂戸城が築かれた時期には諸説あるが、鎌倉時代に城周辺の上田荘を領した新田氏の一族が、前身となる城郭を築いていた可能性があるという。ただ、城が存在したとしても、簡易な詰城だったと思われる。 城が本格的に築城されたのは、南北朝時代とされるが、南朝方に属した新田氏の庶流が街道を押さえる軍事拠点として築城したとも、文和年間(1352-56)頃か貞治2年(1363)の上田長尾氏の入部後に築かれたともいう。 だが、その上田長尾氏の創始の城は越後上田城という説も…
城跡のすぐ隣にある金峯神社は、江戸時代以前の神仏習合の時代には蔵王権現と呼ばれており、その蔵王堂の横に築かれたことが、蔵王堂城の名の由来という。 城の前身は、南北朝時代に北朝方だった揚北の中条氏が置いた陣で、正平7年(1352)に南朝方の風間信昭らに攻められたことが軍忠状に見える。 寺社は、溝や伽藍が簡易的な城として使えるほか、寝泊りや使者の応対にも最適で、本陣として使われることは割と多かった。しかしながら、陣跡を利用して本格的に城が築城された際に、寺社を移転させずにそのまま城と並存させたというのは珍しいかもしれない。恐らく、僧兵を擁していた金峯神社の持つ武力の影響もあったのだろう。 蔵王堂城…
現地にある春日山城鳥瞰図 あの上杉謙信の居城として有名な城で、五大山城のひとつ。 謙信は、もともとは越後国守護代を務めていた越後長尾氏の出である。その長尾氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏の裔、有名な三浦氏や鎌倉党と同族であり、その祖は景弘や景行という。史料上では、源頼朝の挙兵戦である治承4年(1180)の石橋山の合戦で、平氏方であった大庭景親の配下として、長尾定景と為宗の兄弟が見える。 その後、長尾氏は惣領筋である三浦氏の家臣となっていたようだが、三浦一族は、鎌倉幕府成立後に執権北条氏と対立して宝治元年(1247)の宝治合戦で滅び、その家臣であった長尾家当主の景茂も討死したため、以後の長尾…
森寺城二ノ丸から見る本丸の石垣 能登畠山氏が、越中の拠点として築いた城。当時は湯山城と呼んでおり、一次史料にはその名で登場する。 越中と能登を結ぶ街道は、阿尾川沿いに北上して荒山峠を越える荒山街道が主街道であったが、この街道筋を扼す機能を持った城であった。 具体的な築城時期を史料から裏付けすることはできないが、16世紀前半の遺物が出土していることから、戦国時代初期から拠点として機能したのは間違いなく、時代背景を考えると、宗家である河内畠山氏の要請で能登守護畠山義総が越中に兵を出した、永正16年(1519)から翌年に掛けての越中守護代神保慶宗の討伐の際に築かれたのかもしれない。ただ、能登畠山氏は…
富山市街の西にある呉羽丘陵に築かれた山城。 白鳥城の築城年代は不詳だが、弥生時代の集落の跡が見つかっており、太古の昔から、平地に対する軍事的優位を得られる拠点として使われていたようだ。有史時代では、木曾義仲の四天王に数えられる今井兼平が越後から進出し、寿永2年(1183)5月の般若野の合戦の前夜に呉羽山に陣を敷いたのが初出である。 城として機能するのは戦国時代で、越中西部の守護代であった神保長職が天文12年(1543)に富山城を築いて新川郡に進出するのだが、この長職によって城として整備された。 その背景として、長職の新川郡への進出による越中東部の守護代椎名氏との対立があり、その後ろ盾であった長…