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公娼制

一般

公娼制

こうしょうせい

政府による売春管理制度

日本の場合

[16世紀後半]

豊臣秀吉大阪京都遊郭を認可

[江戸時代]

幕府人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは容認、性奴隷である遊女奉公?が広まる。また前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度?も確立。

1612年庄司甚内幕府に提案し、作られた遊郭吉原である。

街道の旅籠屋(宿屋)で給仕の女が売春することも多かった。江戸時代の「飯盛り女」は駅妓?を指した。また茶屋も売色目的の「遊び茶屋」が存在した。

そのほか湯女風呂?というものが流行した。これは蒸し風呂があって、女たちが

垢を落とし、色を売ったりするものである。

[近代]

明治政府は、1870年(明治3)児童中国人に売ることを禁止.

1872年(明治5)「マリア・ルーズ号事件?」に関連し、「娼妓解放令」発布.

このとき本人の意志に基づく売春行為は認めたため実際,公娼制度は再び発展「貸座敷?」と名称をかえたにすぎなかった。

さらに人身売買的な芸娼妓契約?や養子に仮装した人身売買契約などの形で古い慣行は続けられる。

明治〜昭和の間,多くの娘らが金と交換に貸座敷に連れてこられた.山形県のある地方では人口9万のうち2000人もの女が娼妓として村から消えたという話さえある。昭和恐慌になり,東北を中心として農村は壊滅的な貧困に陥り、身売りはピークを迎えた。

1946年(昭和21)連合国占領軍公娼制度は民主主義に反するとし「日本に於ける公娼廃止に関する覚書」を発した.

しかし日本政府次官会議によって、私娼取り締まりの名目で旧遊廓と公娼制度を「赤線地帯」に温存する方針を決定.

占領軍は表面では公娼制度を非難しながらも実際,裏では占領軍将兵のために売春婦を必要とし各所に慰安所が設けられた.

1956年5月公布,1958年4月全面施行の売春防止法昭和31年法律118号)によって,ようやく売春に関係ある人身売買は激減する。警察庁統計によると,売春関連人身売買被害者数は1955年,13433人から1963年には4503人に減少とある