戦前のプロ野球選手。正字は「黒澤俊夫」。
左投左打、ポジションは外野手。背番号は4番。
大阪府出身。174cm、68kg。
旧制大阪府立八尾中学から旧制関西大学へ進学。
1936年、名古屋金鯱軍に入団し春季大会より参加。
1941年、大洋軍(後の西鉄軍)へ移籍。
1944年、太平洋戦争による人員不足のため、供出選手として東京巨人軍にトレード移籍*1。
1944年、1946年は4番打者として応召された川上哲治の穴を埋めるなど、活躍した。
俊足の外野手で、1試合2本盗の日本記録を含め、歴代2位となる通算10個の本盗を成功させている*2。
1947年のシーズン中、腸チフスを発病し6月23日に急死(享年33)。
現役選手のまま病死という異例の事態に、読売ジャイアンツは球団葬を行った。
1947年7月4日、背番号4は読売ジャイアンツの永久欠番*3となった。
対象となっている黒沢俊夫は左投げ左打ちの外野手。
黒沢は生え抜きの選手ではない。巨人の選手が徴兵で主力が抜けた苦しい時期に、球団初のトレードで入団した強打者。
徴兵で抜けた川上哲治の後を継ぎ4番に定着。
当時主力選手は打順で背番号を決めており、4番打者であったのと、空き番であったため4番を着用する。
また、俊足でホームスチール10回の記録を持つ。そして、戦後川上が復帰すると5番を打つ。
しかし、47年不治の病であった腸チフスにかかり、現役中に倒れる。
臨終の際、選手が見取る中、
「私が死んだら、死体に巨人軍のユニフォームを着せて欲しい、巨人軍の一員のままで死にたい」 という遺言を残した。
そして、遺言通りに行われ、球団葬で送った。
当時、球団はメジャーリーグに追従し、永久欠番を作ろうとしていた。
沢村栄治の14番を永久欠番にしようとしていたときに、一人の選手が球団と掛け合った。
当時チームの主将であった千葉茂は、黒沢の遺言と共に、
「黒沢選手の4番を永久欠番にしてほしい。彼は、巨人軍の危機を救ってくれた。欠番にする事で功績を後世に残したい」と伝えた。
それは全選手の願いでもあった。
1947年7月4日、沢村栄治の14と共に正式に背番号4番が永久欠番になった。
黒沢俊夫の永久欠番の件については、これまで多くの著書やインターネットなどで紹介されてきたが、
当時の事情を知らない人が多いことや、著者・編集者の偏向的な意図もあって恣意的に紹介、根も葉もない俗説が広まっている。
決して死んだから欠番という縁起の面でや、4という数字のイメージを忌避する為に永久欠番となった訳ではないので、配慮すべきである。